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いろんなお話

2022年11月03日

救世主教について想う

3.想念次第・想念の転換と拡がり(想念の向上)

  • 救世主教には「想念次第」という言葉があります。これは「想念の持ち方次第で人は幸せにも不幸せにもなる」、「想念の在り方がその人の運命をも決定する」という教えです。そして救世主教では「感謝・素直・真実」の想念、想念を常に転換し向上させていくこと(「想念の転換と拡がり」)が大切であると教えています。
  • 人は常に正なる想念と邪なる想念の間を揺れ動いており、ここに人生の幸・不幸の分岐点があります。また想念は生命力の源であり、人の言葉や行動の原動力となります。人は想念に基づいて行動するため、想念にあることは必ず何らかの形となって現れます。すなわち「感謝・素直・真実」の想念、「真・善・美」を求める正しい想念からは、正しい言葉や行動、正しい結果(「健・富・和」)が生まれますが、「我・執着・慢心」、「偽・悪・醜」の誤った想念からは、誤った言動や結果(「病・貧・争」)しか生まれないと考えています。強大な権力を持つ指導者の誤った想念により戦争や紛争にまで発展することがあるのはその一例です。
  • 私たちは、想念が浄化され、その能力を正しく発揮できるようになることを「想念の向上」と呼んでいます。「想念の向上」とは「感謝・素直・真実」に満ちた想念、「真・善・美」を求める想念のことです。「感謝・素直・真実」に満ちた想念をさらに高めていくと「無の想念」に至ります。それは「何も無い」という意味ではなく、何事においても偏りやこだわりがなく、神の御神意(みこころ)のままに、(良いことも悪いことも)すべてを感謝・素直・真実の想念で受け入れる想念になるということです。この意味で、「想念の向上」とは「霊性の向上」であると言えます。
  • 救世主教には「苦は力」という言葉があります。救世主教の開祖である牧喜之助師は「苦を逃れようとする想念は、苦に対して無力となる」と説かれました。苦しみから逃れようとするのでなく、苦を感謝の想念で受け止め、御神意(みこころ)のままに受け入れて、進んで苦を乗り越えようとする強い想念を持つことが大切であると説いているのです。

2022年10月10日

螺旋階段

10月に入って過ごしやすくなってきました。 昼間は暑い日もありますが、朝晩が涼しくなりました。 秋の気配を少しずつ感じることが嬉しいです。

私は先月から体調が良くないまま10月に突入って感じです。 時々、心身共に疲れきっている自分がいます。 「この感情も生きているからこそ。有難い」と自分に言い聞かせています。 しかし、有難いという気持ちよりも、心身の疲れの方が優っているのが本音かもしれません。

主人と息子は転勤族です。 主人は今月末に熊本から戻ってくる予定です。 独身の息子は今月から福岡勤務です。 引越しのため福岡へ行ったり、次は引越し準備や片付けで熊本へ行きます。 何か老体に鞭打つ感じです。 自分の感情と体が、追い付いていきません。

その上、自宅での衣替えも必要に迫られているような。 大好きな料理も作る気になれず、お惣菜ばかり。 同居している娘に「大丈夫?、どうしたの?」と声をかけられます。 会話も面倒。内心は「話しかけないで」と思ってしまいます。 頭と体を休める「ぼーっと」する時間が必要なのかなと。 「全ては自分の心(想念)次第」という教えがあります。神結びの言魂がよぎりますが、できていません。 その心に到達していません。 なかなか神仰即生活の基本ができていないと痛感している私です。

今の私は螺旋階段に例えると、階段を上って踊り場で長時間休憩しているところだと思います。 心と体が休憩中で止まってしまっています。 全ての作業が終わったら、ひと息ついて、また螺旋階段を一歩ずつ上がっていこうと思っています。

 


2022年10月08日

救世主教について想う

3.救世主教の教えの概要

【『信徒の手引き』より(原文)】

  • 神・幽・現三界は、神の絶対愛と絶対力によって創造され、真・善・美、健・富・和の理想に向かっている。
  • 我々はその理想社会を日月地の神世と言い、理想の家庭である神仰家庭を築き、理想の人間である神性人間を目指している。
  • そのため、神の洗霊と言魂をいただき霊性を向上し、想念の転換と拡がりによって、感謝と素直と真実の想念になり、救世賜命に仕えて祖霊の念願に応えるのである。

 

【救世主教の教えの概要について、『みおしえ』『神仰用語の解説」等を参考に、もう少し具体的な内容にしてみました】

1.日月地の神世

  • 私たち救世主教は「目に見えない世界」があると信じています。神々がおられる「神界」、私たちの祖霊がおられる「幽界」です。

そして、私たちが現在、生活している目に見える世界「現界」と合わせて「神・幽・現三界」と呼んでいます。

  • 私たちはこの「神・幽・現三界」が、神の絶対愛と絶対力によって創造され、「健・富・和」、「真・善・美」の理想社会に向かっていると信じます。私たちは、その理想社会を「日月地(みろく)の神世」と呼んでいます。
  • 「日・月・地」という言葉は、生命活動の大元である太陽・月・地球といった「大宇宙の働き」を示しています。人間や生物にとって、太陽や月や地球の働きはなくてはならないもので、その調和ある運行が大切なことは言うまでもありません。「日月地の神世」とは、人間を含めた生物すべてが、その大元であり、始めである神の御神意(みこころ)に沿い、本来の働きが発揮されて正しく営まれている「調和の状態」とも言えます。
  • しかし現実には、世界各地で戦争や紛争、地球温暖化による異常気象や災害、世界規模の感染症、貧富の格差拡大等が起き、理想とされる「健・富・和」、「真・善・美」とは正反対の「病・貧・争」、「偽・悪・醜」の状態が見せられています。
  • 私たちはそのような状態にあったとしても、すべては神の御神意(みこころ)であり、理想社会「日月地の神世」に至るための準備過程、良い状態になるための調和作用(「浄化」)であると考えています。そして「日月地の神世」を創造するため、私たち各人が理想とされる「神性人間」を目指し、理想家庭である「神仰家庭」を築き、その「神仰家庭」の輪を社会全体に広げていくことが大切であると考えています。

 

2.神性人間・神の洗霊・霊主体従の想念(霊性の向上)

  • 私たちは、人間には本来、神の性質(「本霊」)が仕組まれており、その働きを正しく生かすことができる人を「神性人間」と呼んでいます。すなわち「神性人間」とは、自分の中に本霊が仕組まれ、神から生かされていることを自覚(「霊智」)して、神の御神意(みこころ)に沿って生きることができる人です。
  • しかし私たちは、神から生かされていることを忘れ、自己中心的な心、「我・執着・慢心」の想念になりがちです。救世主教では、心の状態や内面、精神的な働きのすべてを「想念」と呼びますが、「我・執着・慢心の想念」とは、我がままで、物やお金などに執着し、自己を過信しておごり高ぶった心の状態を指します。なぜこのような状態になるのでしょうか。
  • 私たち人間には、神のご分霊である「本霊」と、この本霊を補佐し物を認識し考える力の元となる「副霊」が生まれながらに仕組まれており、「想念」はこの「本霊」と「副霊」の働きから生まれると考えています(この本霊と副霊を併せて「霊的生命体」「霊性」と呼んでいます)。「本霊」は神の御神意(みこころ)のままにある魂ですが、「副霊」は人間の在り方にゆだねられた魂です。このため「副霊の清濁」がその人の人間性を左右し、「副霊」に曇りが生じ、(「本霊」の補佐としての)本来の役割を果たさず、正しく働かない場合に「我・執着・慢心の想念」が生じるものと考えています。「本霊」に強く結ばれた想念は神本来の愛に満ちていますが、想念が曇った「副霊」に強く結ばれると、自己中心的な考えや感情があらわになってきます。このため私たちは、「副霊の曇り」を取り除き本来の働きを発揮できるよう、神に想念を結んで「神の洗霊」をいただくことを実践しています。
  • 救世主教では「霊主体従の想念が大事である」と説いています。「霊主体従」とは、神をすべての中心(主体)にすること、世俗的なことを主とするのでなく従とし、神仰を主体にすることです。言い換えると、神界・幽界(目に見えない世界)を主とし、現界(目に見える世界)を従にすること、物やお金を主とするのではなく、いのちを主とすること、霊的生命体について言えば、本霊を主とし副霊を従にすることでもあります。私たちはこのような想念状態になることを「霊性の向上」と呼んでいます。「神の洗霊」をいただくには「体主霊従」ではなく「霊主体従」の想念になり、そのうえで想念を神に結んで、いただくことが大事であると考えています。

2022年10月03日

生きていることが有難い

今月、台風14号が鹿児島に上陸しました。 超大型台風でした。 「これは来るな」と思って、片付けをしたり、買い出ししたり。 最悪を想定して準備しました。 この頃から体調が悪くて、毎日しんどいです。 動きすぎたかなとか、雨で濡れたせいかなとか思ってました。 そのうち暑いのに寒気がしたり、涼しいのに暑かったりと、「私、大丈夫?」と思うほどでした。

高血圧のせいで、顔だけ熱ぽっかったり、体がふらついたり、吐き気したりと散々です。 4年前にも同じ症状がありました。 高血圧だったので、血圧を下げる薬を飲みました。 薬が合わず何度か替えてもらいました。 どれも合わなくて、終いには心臓に負担がきたのか、急性心筋梗塞の検査まで必要になりました。 幸いにも大病でなかったので、安心した記憶があります。 今も高血圧だけの薬は服用してません。 怖くて飲みたくないです。狭心症の薬に血圧を下げる効果があります。 今はそれだけです。

季節の変わり目が影響していたり、ストレスだったり、睡眠不足と気をつけなければと思ってます。特に私に必要なのは良質な睡眠。 とは言え、今朝は3時半くらいから起きてます。 ワンコの体調が悪くて。人も犬も体調不良。 お昼に体を休めようと思っています。

生きているからこそ、辛い、苦しい」があります。「死んでしまっていたら、何にもない」 「生きていることが有難い」と思えば、辛いことにも感謝です。 出来るだけ体を休ませて、ゆっくりしたいと思っています。


2022年10月03日

仕事と家族 4

息子との生活は楽しいものでした。 よく話す子なので退屈はしませんでした。 1学期が終わり翌日は朝1の飛行機で大阪へ。 私と息子の長い夏休みです。 私が行くと、娘は家事から解放。主人は普段会えない息子と会えて喜んでいるよう。 ばらばらな家族が、久しぶりに食卓を囲んで賑やかに。

娘は大学生活に慣れて、友達ができるようになってました。 若いからか関西弁を普通に話すのに驚きでした。 順応が早いんだなと感心しました。 主人は相変わらず鹿児島弁。 でも気をつかって鹿児島弁を、ゆっくり話すようにしてました。 大阪の人からすると鹿児島弁は早口で、何を言っているか理解出来ないようです。 確かに早口かもしれないなと思いました。 逆に鹿児島の人からすると、大阪弁も早口で怒ったような口調に聞こえます。

主人が「耳がおかしくなる、関西弁が慣れない」と言っていました。 お仕事の休みの日は、奈良に行ったり京都へ行ったりと、退屈をすることはありませんでした。 いつも楽しかったです。 鹿児島に帰る時は、毎回寂しいでした。 伊丹空港から鹿児島空港に着くと、余計に寂しく。  また家族ばらばら。 こんな生活が息子が高校3年になるまで続きました。

 

 

 


2022年09月18日

感謝の心 (想念)

最近の私は、心(想念)が晴れやかで絶好調です。 心が軽くなっているような感覚すらします。  でも人間は良いことばかりではないです。 苦しいこと、喜怒哀楽があります。 今は晴れやかな心でも、そのうち苦しい嫌なことがあるんだろうと思っていました。

逆に今の状況が、おかしいと言うか不思議でもあります。 「心が晴れやか」考えました。 私の原点を思い出しました。 「生きる」「生かされている」ことです。 私は30年前に誤診されたことがあります。 医師の診断で出された薬を、「ずっと服用していたら死んでいたでしょう」 別の病院の医師に言われました。私は今までの人生に何度か死にかけています。

医師に「このままだと死にますよ」とか「あなたは死にたいんですか」など言われたことがあります。 「生」と「死」の境目に数回いました。 そんなことを思い出していたら、私の「心が晴れやか」は生きていることへの、有難い恵なんだろうと想います。 今も膵臓と心臓に爆弾を抱えてます。 今までに何度となく「病貧争」、特に「病」で苦しみました。

私の場合、生きていることが当たり前で普通ではないです。 「生かされて生きている」と喜怒哀楽の感情すら有難くなります。 そして小さなことに「くよくよしてはいけない」と、気づかせてもらったのです。 きっと「心が晴れやか」なのは、今の私だと、生きて生かされていることに感謝、喜怒哀楽にも感謝。 生きることは「感謝」の連続なんだなと改めて想いました。


2022年09月13日

幸せ

信(神)仰をすることが愉しいです。 人と接することが愉しいです。 毎日のように幸せを実感しています。 もちろん今までも小さな幸せはありました。

今回のようにコロナになって「周りの人達に感謝、只々感謝」ということはなかったと思います。そして今日も嬉しい日でした。 先月は心臓の病院に行くことになっていましたが、コロナだったので今日になりました。 コロナ前後に心臓に違和感、バクバクするような、軽い痛みのようなのが気になっていました。 ちょうど薬もなく行かなければいけなかったのです。 心臓は特に異常がなく心配することはありませんでした。 ほっとしました。

嬉しいこと、愉しいことに「有難う、有難い」という感謝があれば連鎖するんだと思いました。 嫌なことも不思議とポジティブに考えられる。 「有難う、有難い」の気持ちは私を幸せにしてくれるのです。 そのうえ「頑張ろう」と強い気持ちになれます。 今の私は怖いもの知らずで無敵かなと思います。

 


救世主教について想う  その1

【『信徒の手引き』より(原文)】

吾等は、この大宇宙の創造主たる大主神が、全人類の希求する真1.教義(救世主教の根本理念)

  • の理想社会をこの地上に樹立すべく、太初より大経綸を行わせ給いつつあることを信ずる。
  • この大経綸には、大主神は神々を使い給い、神々の代行者として人間をも使い給わるものと信ずるものである。
  • 一切万有は人類の平和と発展のために造られたものであり、現今に至る人類史はこれによって人類が理想社会を造る為に、大主神の為し給える準備過程として経験して来たものに外ならないと信ずる。従って大主神は、その時代時代において必要な人間と必要な宗教を顕し給い、それぞれの使命を遂行させ給うたのである。
  • 現今のこの地上社会の様相は混沌として止まる処を知らず、この時に際し、大主神はその絶対力を我が教祖に降し給い、全人類救済の大業を成さしめ給う事を信じ、人類の災厄・病・貧・争を根絶し、健・富・和のもと、完き恒久平和の理想社会、日月地の神世の創造に寄与することを目標として精進、邁進するものである。

 

【この教義をなるだけ平易な表現にしてみました】

  • 私たち救世主教は、この大宇宙の創造主である大主神が、全人類の願い求める真の理想社会(「日月地の神世」)をこの地上に創造すべく、天地誕生の時より大経綸を行われてきたことを信じます。
  • この大経綸において、大主神は神々を使わされ、神々の代行者として人間をも使わされてきたものと信じます。
  • 私たち救世主教は、この世に存在するすべてのものは人類の平和と発展のために造られたものであり、現在に至る人類史は、人類が理想社会を造るために大主神の為される準備過程として経験してきたものにほかならないと信じます。したがって大主神は、その時代時代において、必要な人間と必要な宗教をあらわされて、それぞれの使命を遂行させられたものと信じます。
  • 私たち救世主教は、混沌として止どまるところを知らない現代の地上社会の難局に際し、大主神がその絶対力を我が開祖・牧喜之助師に降され、全人類救済の大業を成されることを託されたものと信じます。そして人類の災厄や病・貧・争をなくし、健・富・和のもと、恒久平和の理想社会である「日月地の神世」を創造することを目標として精進、邁進するものです。

2022年09月05日

御 守 護

お盆が終わって、新型コロナにかかりました。 息子からうつったようです。  息子は「ごめんね」と私に謝りました。 社会に出て働いているわけだから仕方ないことです。

私はコロナワクチンを1回しか受けていません。 1回目の接種後、狭心症の発作がひどいうえ、発作の回数が多くて怖い思いをしました。 その私がコロナにかかり家族は心配したようです。 2日間は発熱の症状と脈拍が早いと言われ、コロナより心臓の心配をしました。 それでも普段通りに家事全般をしていました。 外出こそ出来ないだけで、いつもと変わらない日常。 コロナになったことに、何かしら意味があるんだろうと考えました。 コロナは少しだけ大変でした。でも、それ以上に周りの人に感謝。 もう感謝しかなくて、感謝してもしきれないというか。

病院、保健所、保険屋さん、日曜日だというのに快く対応して下さいました。とても有難いことです。 私のことを心配してくれる友人や、信(神)仰の同志。 私にとってコロナは「感謝」でした。

「自分に関わる全ての人に感謝しなさい」ということだったと思うのです。 その気持ちをもつと不思議です。 今までだったら空を眺めて思うことといえば、「今日も暑い1日になりそうだな。蝉がうるさいな」そんな感じでした。 ところが今は「空の青色が澄んできれいだな。木々が緑緑して生きているんだな」と。自分が一番不思議です。

心からの感謝の気持ちをもつということは、物や人に対して優しくなれるのだな。見方、捉え方が違うのだなと。プラス思考になれるし何より素直になれると思いました。 「有難う」は魔法の言葉だと聞いたことがあります。 「有難う」と言う方も、言われた方も幸せになる言葉だと。 「有難う」「有難い」と感謝の気持ちでいると、私の中の歯車が噛み合い善の方向に回り始めていることを実感しました。 躍動感に溢れて、愉しい嬉しいの毎日。本当に有難いと感謝です。  大げさかも知れないですが「病貧争」が柔らいだ気さえしています。

神(救世主)様から今回「感謝・素直・真実」最大級の御守護を戴いたと思っています。 この気持ちを忘れないように、今まで以上に御賜命に仕えたいと思います。

 


2022年08月23日

仕事と家族   3

主人が転勤して最初のお正月は、大阪で家族4人楽しく過ごしました。奈良の春日大社に初詣。 今までと違うお正月でした。 この正月を機に、息子の冬休み・春休み・夏休みは毎回大阪で過ごすことにしました。 中2から高3まで続けました。 終業式の翌日から始業式の前々日まで大阪にいました。 高3は少し早く帰ったような。 主人も子供達にとっても良いと考えました。

今まで家族4人というのが当たり前で、1人欠けてしまうことは考えたことがありませんでした。 だからこそ家族の時間にこだわり、団欒にこだわりました。 仕事に追われている主人も、毎回この長い休みだけは特別だったと思います。 いつも感じていたことがあります。 大阪へ行く時は嬉しくて心が弾み、自宅に帰る時は寂しい感情が毎回ありました。飛行機が大阪を離れるにつれて寂しさが募っていました。

家族に会える喜び、離れる寂しさだったのでしょう。 そして4月、息子は中3。 娘は大学生。関西の大学に行くことにしました。 誰よりも喜んでいたのは主人でした。 主人と娘の生活がスタートして、話相手がいることが嬉しかったのでしょう。家事からも解放されました。 娘が家事全般をしてくれて喜んでいました。 娘と買い物に行ったり、主人は寂しさから解放されたことが一番の喜びだったと思います。 仕事も少しずつ慣れてきていました。 主人は娘のおかげで心に余裕ができたと思います。 息子は私と生活です。 息子は受験生、二人して規則正しい生活をしていました。 そして二人して夏休みが待ち遠しかったです。