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救世主教について想う

2022年10月08日

救世主教について想う

3.救世主教の教えの概要

【『信徒の手引き』より(原文)】

  • 神・幽・現三界は、神の絶対愛と絶対力によって創造され、真・善・美、健・富・和の理想に向かっている。
  • 我々はその理想社会を日月地の神世と言い、理想の家庭である神仰家庭を築き、理想の人間である神性人間を目指している。
  • そのため、神の洗霊と言魂をいただき霊性を向上し、想念の転換と拡がりによって、感謝と素直と真実の想念になり、救世賜命に仕えて祖霊の念願に応えるのである。

 

【救世主教の教えの概要について、『みおしえ』『神仰用語の解説」等を参考に、もう少し具体的な内容にしてみました】

1.日月地の神世

  • 私たち救世主教は「目に見えない世界」があると信じています。神々がおられる「神界」、私たちの祖霊がおられる「幽界」です。

そして、私たちが現在、生活している目に見える世界「現界」と合わせて「神・幽・現三界」と呼んでいます。

  • 私たちはこの「神・幽・現三界」が、神の絶対愛と絶対力によって創造され、「健・富・和」、「真・善・美」の理想社会に向かっていると信じます。私たちは、その理想社会を「日月地(みろく)の神世」と呼んでいます。
  • 「日・月・地」という言葉は、生命活動の大元である太陽・月・地球といった「大宇宙の働き」を示しています。人間や生物にとって、太陽や月や地球の働きはなくてはならないもので、その調和ある運行が大切なことは言うまでもありません。「日月地の神世」とは、人間を含めた生物すべてが、その大元であり、始めである神の御神意(みこころ)に沿い、本来の働きが発揮されて正しく営まれている「調和の状態」とも言えます。
  • しかし現実には、世界各地で戦争や紛争、地球温暖化による異常気象や災害、世界規模の感染症、貧富の格差拡大等が起き、理想とされる「健・富・和」、「真・善・美」とは正反対の「病・貧・争」、「偽・悪・醜」の状態が見せられています。
  • 私たちはそのような状態にあったとしても、すべては神の御神意(みこころ)であり、理想社会「日月地の神世」に至るための準備過程、良い状態になるための調和作用(「浄化」)であると考えています。そして「日月地の神世」を創造するため、私たち各人が理想とされる「神性人間」を目指し、理想家庭である「神仰家庭」を築き、その「神仰家庭」の輪を社会全体に広げていくことが大切であると考えています。

 

2.神性人間・神の洗霊・霊主体従の想念(霊性の向上)

  • 私たちは、人間には本来、神の性質(「本霊」)が仕組まれており、その働きを正しく生かすことができる人を「神性人間」と呼んでいます。すなわち「神性人間」とは、自分の中に本霊が仕組まれ、神から生かされていることを自覚(「霊智」)して、神の御神意(みこころ)に沿って生きることができる人です。
  • しかし私たちは、神から生かされていることを忘れ、自己中心的な心、「我・執着・慢心」の想念になりがちです。救世主教では、心の状態や内面、精神的な働きのすべてを「想念」と呼びますが、「我・執着・慢心の想念」とは、我がままで、物やお金などに執着し、自己を過信しておごり高ぶった心の状態を指します。なぜこのような状態になるのでしょうか。
  • 私たち人間には、神のご分霊である「本霊」と、この本霊を補佐し物を認識し考える力の元となる「副霊」が生まれながらに仕組まれており、「想念」はこの「本霊」と「副霊」の働きから生まれると考えています(この本霊と副霊を併せて「霊的生命体」「霊性」と呼んでいます)。「本霊」は神の御神意(みこころ)のままにある魂ですが、「副霊」は人間の在り方にゆだねられた魂です。このため「副霊の清濁」がその人の人間性を左右し、「副霊」に曇りが生じ、(「本霊」の補佐としての)本来の役割を果たさず、正しく働かない場合に「我・執着・慢心の想念」が生じるものと考えています。「本霊」に強く結ばれた想念は神本来の愛に満ちていますが、想念が曇った「副霊」に強く結ばれると、自己中心的な考えや感情があらわになってきます。このため私たちは、「副霊の曇り」を取り除き本来の働きを発揮できるよう、神に想念を結んで「神の洗霊」をいただくことを実践しています。
  • 救世主教では「霊主体従の想念が大事である」と説いています。「霊主体従」とは、神をすべての中心(主体)にすること、世俗的なことを主とするのでなく従とし、神仰を主体にすることです。言い換えると、神界・幽界(目に見えない世界)を主とし、現界(目に見える世界)を従にすること、物やお金を主とするのではなく、いのちを主とすること、霊的生命体について言えば、本霊を主とし副霊を従にすることでもあります。私たちはこのような想念状態になることを「霊性の向上」と呼んでいます。「神の洗霊」をいただくには「体主霊従」ではなく「霊主体従」の想念になり、そのうえで想念を神に結んで、いただくことが大事であると考えています。