救世主教の教え

救世主教 TOP> 教え >教団時報

教団時報

2021年09月19日

自己を生かす。

自己を生かすとは、人さまざまな能力、才能などの天分を伸ばし、価値ある人生、充実した人生を送るように努力することです。自己を生かすことによって人は生き甲斐ある人生をおこることができます。そもそも、人は、神より生かされています。これは動かしがたい真実です。その真実を視るために人は活発な生命活動を通して、自己の生命を完全燃焼するよう努力しなければなりません。ここに生きがいが生まれます。これを神は望まれています。しれが神命であり、賜命であります。それはまた、生命を引き継いできた祖霊の念願でもあります。

次回に続きますが、わかりやすくします。

眠っている天分を伸ばし完全燃焼を

みおしえ「自己を生かす」をいただきます。全体の理解を中心に考えてみましょう。

人には素晴らしい才能や能力、性質が与えられています。それは天から分け与えられたもの、すなわち「天分」です。しかし、本文にあるようにその天分の事については十分知らなかったり知っていても十分に生かしきるということには程遠いようです。その一つとして、一般的には「超能力」というものがあります。信仰的には、「霊的な力」や「霊智」と言われるものがあります。「生きる力」も本当にまだつかまれていません。また、人間にはもっと能力があると思われているもので、よく例えに出されるものに「脳」があります。人間は、生きている内にその大半は使わず、自然に退化させているのです。その他にもっと我々が気がついていない能力や性質があるように思います。           次回に続く


2021年09月12日

徳を積む 最終回です。

次に人のためにするというのは、人類の未来を共に考えるということでもあります。その考えたことを人に伝え仲間づくりをすることもあります。人のこころを温かくすることを考えるのも大切です。人に笑いをもたらすこともあります。人の幸せを願ってするということは、人のためにすることと共に、もっと直接的な内容も含まれます。家庭の幸せのために努力することもあります。生きる希望を与えることも考えられます。

さらに他人の難儀を助ける、困っている人を助けるということはたくさんあります。若い人がお年寄りに席を譲るというささいな行為から、いのちの危ない人を助けるということまでその幅もひろいでしょう。人の難儀を見てみぬふりする人はいないでしょうが、積極的に人の手助けをしてゆく社会になるように願いたいものです。様々な徳を積む行為が考えられますが、我々は、信仰者としていっそう徳を積む努力をしたいものです。     以上です。


2021年09月07日

徳を積む その3

さて、人は神様よりもっと積極的に自分の命を生かすことが望まれています。それが賜命です。

じっとしていても生きているかぎり他の生命を犠牲にするのですから、じっとしているのではなく積極的に体を使って、想念を使って人のため世のために尽くすように努力することです。

「世の中のためにする。ひとのためにする。人の幸せを願ってする。他人の難儀を助ける。困っている人を助ける。」とあります。ひとのためにするという言葉で言い尽くしていると思われますが、その行為には様々なかたちがあるようです。

まず世の中のためにするということでも、大袈裟なこと、大それたことというのではありません。立場や仕事を活用してできることもあれば、平凡な人でも世の中のためにできることはたくさんあります。平和への祈り、大自然を大切にする。環境の悪化を防ぐようにする。ボランティア活動を勧める、世の中のためを考える人、子供を育てるなど、いずれも世の中のためにすることです。

次に続く。


2021年08月29日

徳を積む。その2です。

さて、人が生きていくには、多くのいのちの犠牲の上になりたっていることは言うまでもありません。そのような心をもつとき感謝が生まれ思いやりの想念(こころ)培うことができるのです。もちろん自分のいのちをも大切にするという心が育ちます。物を大切にするということも徳を積む行為に繋がるのです。生きる姿勢そのものが徳を積むか、積んだ徳を少なくしていくかどうかに繋がっていくのです。

ここに一人真面目に生きる人がいるとします。その人は別の人のためとか世のためとか言わないけれど、大自然の中にあって与えられた仕事を転職と考え、一生懸命に働いている、周りの人は彼のその姿をみているだけで清々しい気持ちになれる。このような人は立派に徳を積んでいます。また、ある人は世のため人のためと言ってやはり仕事にも精をだしています。しかし、言葉づかいが悪く周りの人を傷つけたり気分を悪くさしてしまいます。このような人は半分徳を積みながらも、積んだ徳を少なくしている人なのです。このように徳を積む行為はまず、自分自身の想念(こころ)と言動、言い換えると心言行を正し、神に結んだ心言行を心掛けることなのです。人は、生きているだけで、他の生物を犠牲にします。その上に自分では気がつかない間に、他の人を傷つけることもないとは言い切れないのです。ですから、心言行をいつも正し、一致した在り方をするよう望まれるのです。そしてそれは、簡単なことではなく大変に難しい事なのです。それができれば徳を積む行為の半分は成し遂げられたと言えます。

次回へ


2018年08月20日

想念がなければ結果は生まれない。

型は、まず想念に視せられてきます。
型を、(実態のある)形にするには、想念の器がなければなりません。
“こうしたい”と思わなければ、“こうする”ことは、実現できないのです。
想念に型がつくられることを、“想念ができる”といいます。
できた想念、つくった意思によって、結果が生まれてきます。
“原因の想念”があるから、“結果の現実“ができるのです。
結果は、(想念という)原因の前に存在することは、けっして無いのです。
“こうする”と思う想念が原因となって、“こうできた”という、形をもった結
果が生じるのです。
原因の想念に結果となる形がつくられるのです。
想念がなければ、結果は生まれようがないのです。


2018年07月23日

ものの見方と考え方 その③

人生にはいろんな事に出会う。一日の生活の中にもいろんな事に出会う。その一つ一つに対して、神の心に叶ったものの見方や考え方ができる様になると、その人は救われた人になる。救われたひとは人を救える人でもある。例え、今、その人が病貧争の中にあっても、神のこころに叶ったものの見方や考え方ができるなら、その人は人を救える人である。そういう人には不幸がなくなる。
そういう人は自分の心を神に結び、神の使命を自覚している。それは、自分の目の前にいる人、自分の周囲の人から愛を与え力を与え、喜びを与え幸せを与えようと努力する。それが神から頂いた自分の使命だと思っているから、決して人を悪く思い、悪く言い、悪くしたりする事はない。そこから生成化育する神意に叶ったものの見方が出発する。

  • ものの見方と考え方

2018年04月02日

父と子

新聞を読みながらですが、杉山平一さんの詩の中に「父と子」という一編があります。キャッチボールに興じる親子を見つめた詩です。
一球一球に感応して言葉が紡がれていく、投げる、受ける、声にならないもの、吐き出している。ボールのやり取りを通して、子どもの心を受け止め確かめて、そっとよりそう。今、このボールに込められている子供の心は、喜び、希望、夢で一杯なのか。それとも、苦しみ、悲しみ、辛さを抱えているのか。
グローブ(心)で受ける球の重みをどれだけ感じることができるだろうか。
父と子、同時に共に生きている我々、共、伴、友、これからも頑張っていこうよ。

互いに無言のキャッチボール・・・・
でも、心は、繋がっている 父と子。


2018年03月19日

ものの見方と考え方 その①

神仰による救いとは何だろう。それはものの見方や考え方が変わるという事だろう。
今まで悩んだり苦しんだり悲観したり、時には絶望的になっていたものがものの見方や考え方を変える事によって希望が生まれたり歓びが生まれたりする。その時のその人は救われたという実感を持つ。

神仰は、ものの見方や考え方を変えてあげる事、それが救いという事なんだ。この事をはっきりと掴んでいないと、神仰の仕甲斐がない。神仰により人間性が変わるという事も、家庭の中が変わってくるという事も、幸せになるという事も、具体的にはものの見方や考え方が変わってくるからである。

何故神仰すればものの見方や考え方が変わってくるのか、それは簡単である。自分の目の前にあるもの、それを自分の心で受け取らずに神に結んだ心で受け取る。
神が何故自分にこのようなものを与えるのかという受け取り方をする。そうすると自分の進むべき道が見えてくる。前途があるという事は救いがあるという事で、希望が湧き、苦しみが喜びに転じ、不平不満が感謝に変わる。


2018年03月31日

ものの見方と考え方 その②

もし、自分の心で受け取っていると、受け取り切れないものがあって悩んだりする。
そこから不平不満になり争いが生まれ、破壊になる。それを神に結んだ心で受け取る。神は愛であり力であり、救いであり、生育化育であるから、その線に添ったものの見方や考え方、受け取り方するようになる。
だから、信仰する人の心に愛が生まれ、力が生まれ、救いが生まれ、生成化育が生まれる。そうならなければいけない。
もし、そうなっていないなら、自分の、ものの見方や考え方を充分に検討してみよう。
まだ、神の心に叶ったものの見方やかんがえかたが出来ていない事に気づくはずだ。


2016年06月10日

~節分けの時を迎えて~  想念の世界を変えていく

どのような想念の世界を変えなければならないのでしょうか。
救世主様は「“物”中心から“心(神)”中心に変わること」と仰せられました。

物を中心にすると我や執着、慢心が生まれ、私有の想念が育ってきます。
そして物への切りなき欲が強くなっていきます。

そうすると、その欲が弱肉強食の関係を創っていくのです。
強いものは利己的となり、弱いものを蔑ろにし、弱いものは強いものに屈し、怨念の想念となるのです。

強いものも弱いものも、共に神様が示されている真実を見失うのです。
物中心の想念は“時”にも及びます。
他の人の時間さえも、私有化してしまうこともあるのです。
物中心による我・執着・慢心は、結果として病貧争へとつながっていくのです。

しかし、すべては神様からいただいたものです。
言い換えれば、現界にいる間、神様から借りているのです。
なぜなら、すべての物は“あの世”には持っていくことはできないのです。

それでも、自分の物と思うところに想念の誤り(間違い)が起きてしまいます。

また、自分の力で所有したと考え違いをし、神様を無視して我、執着、慢心が強くなっていくのです。

想念を変えていきましょう。
物中心から心(神)中心に変えていくことです。
それには、物が主ではなく、神様に結ばれた生命が主であることを視ることです。

神様に結ぶ想念により、“我・執着・慢心”を“感謝・素直・真実”に変えていきましょう。