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教団時報
2016年05月10日
~神実をいただく~ 神の大愛
神様から平等にいただいている代表的なもの、それは光であり、時です。そして神の大愛とみこころは、神光りとなって注がれています。
私たち人間をはじめ生命は、その神光りのもとに果たさなければならない“賜命の地所意”に生かされています。
しかし、人はそのことをなかなか知ろうとしません。
知らないために、不安、不信、不和といった心を抱いてしまいます。その心の元は、物を中心にした考えから生まれ、育っていく“我、執着、慢心”です。そして、いつの間にか暗い夜の世界へと進んでいくのです。
しかし、どんな真っ暗な闇にあても神様は、光を照らしてくださいます。闇の夜に光る灯台のように、必ず私たちの行き先を照らしてくれます。明けない夜はありません。出口のないトンネルはないのです。
夜の世界から昼の世界に変われた(救われた)ときに強く神の大愛を感じます。神の大愛は、特に救われた“歓びの想念”で“しる”のです。
神の大愛を“しる”には、“視(し)る”ことが大切です。
“しる”には、 “知る”“識る”“視る”の三つがあります。
“知る”は、物事や姿形を表面的に見ることです。
“識る”は、見えてないところを識ることです。
“視る”は、霊的な神理として視ることです。
私たちは、物事を三つ目の霊的な神理として視ることを忘れて、“知る”“識る”の人智だけで見ている、また知ることが多いのです。
“知る”“識る”でみると、自分の都合のいいように事実を隠したり、誤魔化したりしてしまいます。そして、都合の悪いことにはふたをしてしまうのです。
そうすると、神のみこころもわからず、いただいている大愛にも気づくことができなくなります。
一つのマイナスの出来事によって、いただいている九十九の天恵が見えなくなることもあるのです。
2016年02月24日
事実に示せば真実となる
人の真実は、神様が求められる真実にはほど遠いものです。
そのために、いろいろと不自然な状態に陥っています。
神様が求められる真実があれば、「私の真実」というものがあります。
自分が言うこと、することは正しい、私は人のために尽くしているという強い思いです。
自分の真実があれば、他の人にも真実があります。
私の真実と他の人の真実が一致すれば問題はないのですが、一致することは稀ではないでしょうか。
自分は親切でしたと思っていることが、お節介だったということもあります。
時には、自分の真実を無理に押し付けたりもします。
真実だと思っていても、思っていることと言うことが違う。
言うこととすることが違う、というようなこともあります。
私たちは、思うこと、言うこと、行うことを「心言行」と言います。
「心言行 一致の力なかりせば 人を動かすことはあたわじ」という御讃歌があります。
思うこと、言うこと、行うことが一致していなければ、人は私を信じて動いてはくれません。
心言行に齟齬が生じると人間関係もうまくいかなくなります。
心言行の齟齬により、人はさまざまな苦しみを感じるのではないでしょうか。
この齟齬が生じる原因は何でしょうか。
人は、物中心の考えになると“執着”が生まれます。執着は自分が中心という“我”を生みます。
その我が“慢心”を育てていきます。自分は正しい、他の人は間違っているという思いがわいてきます。
そこに心言行に齟齬が生じてきます。
そのことにより、結果は自ずと悪いものになっていき、不真実ということになります。
このような、自己中心の真実でなく、ほんとうの真実、神様のみこころにかなった結果を事実として示していくことが大切です。
そのためには、心を神様に結ぶことです。
そして、他のために為す、救い(感謝と素直)の真実に生きていくことです。
2015年12月19日
御神業を継いでいこう
「継ぐ」というと、“家督や家業を継ぐ”が頭に浮かびます。
「継ぐ」に類似している言葉として「繋ぐ」があります。
辞書でみてみますと、「継ぐ」は“結び合わせたり、足したりして一続きのものとする。ものごとが断絶しないように、前に続けて行うこと”とあります。
「繋ぐ」は“離れているもの、切れている物を一続きのものに結びつける”とあります。
このように、継いでいくことと繋いでいくことは同じようで違います。
継いでいくということは、切れることなく、連綿として続いていくようにしていくことです。生命と同じです。
今年は戦後70年でした。特に印象に残っていることは、実体験された方が年々少なくなり、当時の想いを継いでいくことが難しくなってきているということです。今後は、戦争を知らない人が、代わって継いでいかなければなりません。
戦争のことだけでなく、様々な分野でも継ぐということが課題となっています。
世代交代は30年といわれます。30年を通して引き継ぎ、受け継がれていきます。
最初の30年は、自分がさまざまな縁を通して、成長していくための大事なときです。そして親や先輩からさまざまなことを継いでいく準備の期間であり、受け継ぐときとなります。
次の30年は、自分だけでなく、家族や共に生きていく人といっしょに成長していくときです。そして、子や後輩に継いでいくときとなります。
60年のときを経て、“還暦”を迎えます。
これまでの60年間は、自分と自分の家族をはじめ直接関係する人のために生きる時間がほとんどです。
60歳からは、他のために生きていく時間です。まさに“他のために為す”救い輪を大きく展開していくときとなります。
日月地の神世創造のため、言魂と洗霊の御神業を、家族にそして多くの人に継いでいきましょう。
2015年11月30日
地上の天国 ~「日月地の神世創造の神事」から~
この現界に写される地上天国のすがたが“日月地の神世(健富和、真善美の理想世界)”です。
この“日月地の神世”を創造していく御神業が、私たちが賜った“言魂と洗霊の御神業”です。
日月地の神世創造のため、私たちは“神の使徒”として、救いの御賜命にお使いしています。
現界に霊界の様を写しだして、“日月地の神世の型”をみせられるのが、10月に行われる“天国大祭”です。現在はこの大祭を“御聖誕祝典”として移されました。
“御聖誕祝典”に、祖霊と共にご参拝をゆるされることによって、“因縁の結び替え”と“夜の因縁解消”がゆるされます。
そして“新しき生命”と“新たな賜命”をいただくのです。
ここでいう「新しき、新たな」とは、新しい、古いということではありません。
私一人が“今、(他のために)為すべきこと”を、みこころとしていただくことです。
そして、私一人の為すべき“心言行”を神誓いするのです。
この“新しき生命と新たな賜命”は、参拝することと同時に、神様に感謝する心(想念)にゆるされます。
私たちの生命をはじめ、すべてのものは、神様から賜わったものです。
それを、神様を無視して私の物、私の力で得た物などと思うところに“想念の誤り”がおきます。その想念の誤りによって、我や執着、慢心が生じて、“病貧争”となるのです。
神様を無視した“想念の誤り”を、神仰の想念に生まれる“感謝、素直、真実”に改心していきましょう。
一切は“想念”にあります。想念によって、運命は変えられていきます。
祖霊と共に栄えていく迪(みち)が、“御聖誕祝典”の神結びによって開けられていくのです。
2015年11月21日
~救世主はなぜ生れたのか~ 「因縁の神赦し、神救い」から
救世主はなぜ誕生したのでしょうか。
それは、“日月地の神世”をこの現界に誕生するためです。
“日月地の神世”とは、健富和、真善美の理想世界をいいます。
それには、救世主様が仰せられた、物を中心とした夜の世界から、心(神)を中心とした昼の世界に切り替えていくことです。
そのため、夜の(悪い)因縁を解消し、昼の(良い)因縁を創造していくことと仰せられました。
因縁というと、前世から引き継いだ運命で、変えられないもの。または「因縁をつける」といったように悪いイメージが強いものです。
しかし、運命は変えられます。
因縁は、私たちが生きていくための目標となったのです。
私たちは、因縁によりここにいます。
因縁がなければ、ここにはいません。
私たちの生命は、“この時”と“この場所”と“親”を選んで、賜命と目的をもってこの現界に誕生しました。
その賜命と目的を果たすために因縁があるのです。
原因に、縁が結ばれて、結果(形)となります。
その原因は、霊界にあって、現界に移されてくるのです。
原因が善ければ結果も善い(善因善果)、原因が悪ければ結果も悪い(悪因悪果)はあたりまえですが、悪因であっても善果に変えられると仰せられました。
因縁の神赦しと神救いです。
病気をしなければ健康で、争いがなければ和楽とするのが人智です。
物を中心とした夜の時代に累積された因縁が、原因として移されたときには、病気や貧しさ、争いとして形にでてきます。
形となる前に、神仰に結ばれ、言魂と洗霊をいただき、御賜命にお使いすることによって、御守護がいただけるのです。
また、神様のみこころに適う感謝と素直と真実になれば、災厄や危機に直面しても神様の御守護がいただけるのです。
2015年09月02日
「御神意(みこころ)をいただけば恐れるものはない」から
「いにしえの 道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」
これは『島津いろは歌』の一首目です。
いくらいい話や立派な教えを聞いても言葉に出しても、
自分がそのことを実行しなければ何にもなりません。
このことは、歌の一番はじめにあるように、大切かつ難しいことです。
御神意は、森羅万象に絶えず注がれています。
御神意をしっかりと想念にいただければ、何も恐れるものはないと、いただいています。
しかし、いただける想念がなければ、御神意が絶えず注がれているといえども、
見ても見えず、聞いても聞こえずで、不安を抱くこととなります。
また、自分の都合のよいことはいただいて、悪いことは無視をするのです。
なぜ、そういったことになるのでしょうか。
それは、邪魔をしているものがあるからです。
それが、我、執着、慢心です。
御神意は、素直な想念にいただけます。
そのことは、救いにみせられます。
「救われることを先に願えば、不安となります」
救われることが先に立つと、救われることのみに想念がいき、御神意がいただけず、
なぜ救われないのだろうと、不安になるのです。
「救いを先に神誓いすれば、歓びが生まれます」
救う想念が先に立つと、いかに他のために為すことができるだろかと想念が動き、
救いを実践していく中に、自然と御神意をいただくことができ、
歓びを感じることができるようになります。
そして、救いができることに感謝できれば、救われていくのです。
御神意を真剣にいただけば、霊智をいただけます。
中途半端なら、愚痴がでます。
いただかなければ、言い訳が先に立つのです。
2015年07月28日
「霊智で本命を視る」から
一生懸命とは…
一生懸命とは、「一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けること」です。
“一”には霊と体があります。
霊的には、神様に想念を結ぶことです。
体的には、人や時、事などによって変わってきます。
例えば家庭では、父親が、または母親が“一(中心)”になります。
時には祖父母が、子どもが、お孫さんが“一”になることもあります。
会社にあっては社長や上司が“一”になります。仕事の内容によっては自身が“一”になるかもしれません。
また人ではなく、会社の目的やプロジェクトなどのように目指すところが“一”になったりもします。
このように体的な“一”は、様々です。
その“一”を無視すると、おのずと歪が生じてきます。
これが想念の“誤ち”です。
想念の誤ちの原因になるのが、我・執着・慢心による想念のくもりや濁りです。
“口(くち)”が濁ると“愚痴(ぐち)”に。
“徳(とく)”が濁ると“毒(どく)”に。
“才(さい)”が濁ると“罪(ざい)”に。
“快(かい)”が濁ると“害(がい)”に。
“報恩(ほうおん)”が濁ると“忘恩(ぼうおん)”になるのです。
その想念のくもりや濁りに気づかせてくださるのが“浄化”です。
そして、想念のくもりや濁りを綺麗にしていただくのが、言魂と御洗霊です。
その言魂と御洗霊をいただくには、想念を感謝と素直と真実で満たすことです。
一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けてみましょう。
自ずと、今為すべきことが必ずみえてきます。
2015年07月02日
救いによって救われる
すべては“霊と体”で創られています。
このことを知ることが大事であるといただいています。
このことを知ることによって、私たちが生まれてきた目的や果たさなければならないこと(賜命といいます)がみえてきます。そのことにより、より充実した人生をおくることができるようになります。
私たちは、上下、左右、縦横といった相対の世界に生きています。
相対の世界において上は良く、下は悪い。左が上で右が下というように比較でものごとをみてしまいます。人においても男尊女卑という言葉もあります。
また、物事を正邪善悪で判断してしまいます。良し悪しで決めたがるのです。
このような優劣や善悪でみるところに歪が生じてきます。
すべては“霊と体”で創られていると同じように、上があるから下が見えるのです。左があるから右が分かるのです。悪がみえるから善が分かるのです。
このようにすべては“一如”です。
正邪善悪の中に、より良くなるための、それぞれの働きが、そしてみこころがあるのです。
タイトルの救い、救われることも相対のようで、“一如”です。
救いはすべての人が持っている“本性”です。
救われることもまた、すべての人がもつ“念願”です。
救いと救われることが“一如”としてみせられていくのです。
救われる結果(神の奇蹟)は、私たちの想念の眼にみせられます。
神の奇蹟を知るには、想念を感謝・素直・真実で満たして“利己”から“利他”へ変わることです。
“利己”から“利他”への想念に変わる実践が、救いです。
救いの想念でともに救われていくことを歓ぶのが、“救いによって救われる”共の姿です。
神の奇蹟は、救いにいただくのです。
2015年06月02日
想念の立てなおし
物事は、一から順に始まって、二、三へと進んでいきます。
物事を理解するのも、まず一があって二がわかります。
二があって、一のこと、次の三のことがわかります。
その順序を違えると、うまくいくと思っていても、いかなくなります。
わかることも、理解できなくなります。
「一(神)に二(物)を結んで、霊主体従になれば、(産の)三と成るのです。一の感謝を忘れて、二の不満から始まっては、三の歓びは生まれません。」
一(ひ)二(ふ)三(み)の、二(ふ・不)からはじまると、不平不満、不安、不信、不和、不幸というように、負(ふ)の連鎖が待っています。そして、私はだめだと、諦めの想念となるのです。この想念は、物を中心にした結果です。
それが、一(ひ=火・日・霊=神)から始まると、二(ふ・不)のいただき方が変わってきます。
不二は、二つとない尊いもの。
不死は、死ぬことではなく、霊界への誕生。不苦は、苦ではなく福です。
このように、不・負(ふ)は富(ふ)へと、私たちの想念次第で変わっていきます。
不平不満や不安、不信、不和……は、一(神)に結んで、感謝と素直と真実になって、創造の歓びへと変えていくことができます。
2015年04月20日
生命と想念の実践
私たちは、物や形を中心とした体主のあり方から、心を中心とした霊主のあり方に変わることを目指しています。
物や形を中心にしますと、どうしても自分だけといった“我”や、物や名誉、権力などへの“執着”、人よりも……という比べる“慢心”が芽生えてきます。このような我、執着、慢心が、いろいろな歪をおこし、思ってもいなかった方向へと進んでしまいます。
それではいけないと、四苦八苦しながら、また難行苦行の修行をし、克服しようと努力しますが、それがかなわないと、「仕方がない」と諦め、我慢すればいいといった自己犠牲の心がわいてきます。
そして、残念という“悪い因縁”を残して、自分だけでなく、周囲にも、そして子孫へも悪い影響を及ぼしていきます。
これでは根本的な解決にはなりません。
物や形中心から、心中心に変えていくことです。
そのためには、我、執着、慢心を、感謝、素直、真実の心に変えていくことです。
感謝することで、歓びの想念がわいてきます。素直な想念から改心ができます。真実の想念から、誠心でことに臨んでいくことができます。
“できない”を“できる”に変えていくのが神仰実践です。
その歓びが、“因縁の解消”となり、新たな“良い因縁の創造”へとつながっていきます。「必ず、仕方があります」
神様からいただいた、生命と想念の実践です。