2021年10月31日
こうして神の加護による人生を歩むとき、人間としての値打が発揮される。それが神のみこころにかなう人生です。人格や意思で進めることだけでなく、神のみこころにかなうことが信仰者として生きる道であり、これが救いの信仰である。
自己を生かすことは、自己を視り、意義のある人生を送ることである。自己を生かす自覚なくして、真の生きている証を視ることはできない。
2021年10月31日
こうして神の加護による人生を歩むとき、人間としての値打が発揮される。それが神のみこころにかなう人生です。人格や意思で進めることだけでなく、神のみこころにかなうことが信仰者として生きる道であり、これが救いの信仰である。
自己を生かすことは、自己を視り、意義のある人生を送ることである。自己を生かす自覚なくして、真の生きている証を視ることはできない。
2021年10月25日
このようにひとは天分を与えられ個性的に人間性の完成を目指すのでありますが、直ちに完成できるというものではありません。つねに努力を要するのであります。そしてその過程においても、自己を生かすべきです。いいかえれば自己完成のために自己を生かす必要があるのであります。
さて、自己を生かすためにはまず他人を生かすことが大切です。それは、他人を否定して自己の存在はないからであります。他人を生かしたときには、必ず、相乗効果によって自己をも生かしたことになります。他人を生かし自己をよりよく生かす道の多くは、それぞれの立場を通じて行われるのであります。しかし立場をとおしてのみ生かされるというのではありません。別の生かし方もあります。愛情や親しみや慈しみをもって生かすのであります。理性や感情において、立場を離れて生かす道もあります。
自己を生かそうと努力するとき、まず自己を省みるのです。そこからさらに努力しようという意欲が生まれてきます。そこで人智をこえて、神のみこころに近づこうとするようになります。その時眠っていた霊性がめざめ、天分が発露し、個性が輝き、真の自己を生かすことができるのです。
2021年10月04日
自己を生かすためには、まず自己の人間性の完成が必要であります。そして、神性人間となることを目指すことであります。しかし、その人間性の完成は同じ人間を作るのではないのです。人それぞれに得手不得手があり、神から与えられた才能や性質があります。いわゆる天分であります。
人は、自己に与えられた天分のすべてを視らないし、また、自己の中に眠っている天分に気がつかないままに一生を終わることもあります。知っていても努力をしない、あるいは努力の仕方を間違えているなどして天分を発揮しないままに終わる人もあります。人は、天分を視り生かすことが大切であります。
人は、与えられた天分を生かたとき、それは優れた個性となります。個性があるからこそ、人生には変化があり、また有意義になります。そして、一人ひとりも生きる意味も生まれてきます。人と人の協調や助け合いも当然必要になります。それだからこそ人生に対する興味も尽きないのであります。互いの人生を称賛しうあうこともできるのです。
次回に続く
2021年09月19日
自己を生かすとは、人さまざまな能力、才能などの天分を伸ばし、価値ある人生、充実した人生を送るように努力することです。自己を生かすことによって人は生き甲斐ある人生をおこることができます。そもそも、人は、神より生かされています。これは動かしがたい真実です。その真実を視るために人は活発な生命活動を通して、自己の生命を完全燃焼するよう努力しなければなりません。ここに生きがいが生まれます。これを神は望まれています。しれが神命であり、賜命であります。それはまた、生命を引き継いできた祖霊の念願でもあります。
次回に続きますが、わかりやすくします。
眠っている天分を伸ばし完全燃焼を
みおしえ「自己を生かす」をいただきます。全体の理解を中心に考えてみましょう。
人には素晴らしい才能や能力、性質が与えられています。それは天から分け与えられたもの、すなわち「天分」です。しかし、本文にあるようにその天分の事については十分知らなかったり知っていても十分に生かしきるということには程遠いようです。その一つとして、一般的には「超能力」というものがあります。信仰的には、「霊的な力」や「霊智」と言われるものがあります。「生きる力」も本当にまだつかまれていません。また、人間にはもっと能力があると思われているもので、よく例えに出されるものに「脳」があります。人間は、生きている内にその大半は使わず、自然に退化させているのです。その他にもっと我々が気がついていない能力や性質があるように思います。 次回に続く
2021年09月12日
次に人のためにするというのは、人類の未来を共に考えるということでもあります。その考えたことを人に伝え仲間づくりをすることもあります。人のこころを温かくすることを考えるのも大切です。人に笑いをもたらすこともあります。人の幸せを願ってするということは、人のためにすることと共に、もっと直接的な内容も含まれます。家庭の幸せのために努力することもあります。生きる希望を与えることも考えられます。
さらに他人の難儀を助ける、困っている人を助けるということはたくさんあります。若い人がお年寄りに席を譲るというささいな行為から、いのちの危ない人を助けるということまでその幅もひろいでしょう。人の難儀を見てみぬふりする人はいないでしょうが、積極的に人の手助けをしてゆく社会になるように願いたいものです。様々な徳を積む行為が考えられますが、我々は、信仰者としていっそう徳を積む努力をしたいものです。 以上です。
2021年09月07日
さて、人は神様よりもっと積極的に自分の命を生かすことが望まれています。それが賜命です。
じっとしていても生きているかぎり他の生命を犠牲にするのですから、じっとしているのではなく積極的に体を使って、想念を使って人のため世のために尽くすように努力することです。
「世の中のためにする。ひとのためにする。人の幸せを願ってする。他人の難儀を助ける。困っている人を助ける。」とあります。ひとのためにするという言葉で言い尽くしていると思われますが、その行為には様々なかたちがあるようです。
まず世の中のためにするということでも、大袈裟なこと、大それたことというのではありません。立場や仕事を活用してできることもあれば、平凡な人でも世の中のためにできることはたくさんあります。平和への祈り、大自然を大切にする。環境の悪化を防ぐようにする。ボランティア活動を勧める、世の中のためを考える人、子供を育てるなど、いずれも世の中のためにすることです。
次に続く。
2021年08月29日
さて、人が生きていくには、多くのいのちの犠牲の上になりたっていることは言うまでもありません。そのような心をもつとき感謝が生まれ思いやりの想念(こころ)培うことができるのです。もちろん自分のいのちをも大切にするという心が育ちます。物を大切にするということも徳を積む行為に繋がるのです。生きる姿勢そのものが徳を積むか、積んだ徳を少なくしていくかどうかに繋がっていくのです。
ここに一人真面目に生きる人がいるとします。その人は別の人のためとか世のためとか言わないけれど、大自然の中にあって与えられた仕事を転職と考え、一生懸命に働いている、周りの人は彼のその姿をみているだけで清々しい気持ちになれる。このような人は立派に徳を積んでいます。また、ある人は世のため人のためと言ってやはり仕事にも精をだしています。しかし、言葉づかいが悪く周りの人を傷つけたり気分を悪くさしてしまいます。このような人は半分徳を積みながらも、積んだ徳を少なくしている人なのです。このように徳を積む行為はまず、自分自身の想念(こころ)と言動、言い換えると心言行を正し、神に結んだ心言行を心掛けることなのです。人は、生きているだけで、他の生物を犠牲にします。その上に自分では気がつかない間に、他の人を傷つけることもないとは言い切れないのです。ですから、心言行をいつも正し、一致した在り方をするよう望まれるのです。そしてそれは、簡単なことではなく大変に難しい事なのです。それができれば徳を積む行為の半分は成し遂げられたと言えます。
次回へ
2018年08月20日
型は、まず想念に視せられてきます。
型を、(実態のある)形にするには、想念の器がなければなりません。
“こうしたい”と思わなければ、“こうする”ことは、実現できないのです。
想念に型がつくられることを、“想念ができる”といいます。
できた想念、つくった意思によって、結果が生まれてきます。
“原因の想念”があるから、“結果の現実“ができるのです。
結果は、(想念という)原因の前に存在することは、けっして無いのです。
“こうする”と思う想念が原因となって、“こうできた”という、形をもった結
果が生じるのです。
原因の想念に結果となる形がつくられるのです。
想念がなければ、結果は生まれようがないのです。
2018年07月23日
人生にはいろんな事に出会う。一日の生活の中にもいろんな事に出会う。その一つ一つに対して、神の心に叶ったものの見方や考え方ができる様になると、その人は救われた人になる。救われたひとは人を救える人でもある。例え、今、その人が病貧争の中にあっても、神のこころに叶ったものの見方や考え方ができるなら、その人は人を救える人である。そういう人には不幸がなくなる。
そういう人は自分の心を神に結び、神の使命を自覚している。それは、自分の目の前にいる人、自分の周囲の人から愛を与え力を与え、喜びを与え幸せを与えようと努力する。それが神から頂いた自分の使命だと思っているから、決して人を悪く思い、悪く言い、悪くしたりする事はない。そこから生成化育する神意に叶ったものの見方が出発する。

2018年04月02日
新聞を読みながらですが、杉山平一さんの詩の中に「父と子」という一編があります。キャッチボールに興じる親子を見つめた詩です。
一球一球に感応して言葉が紡がれていく、投げる、受ける、声にならないもの、吐き出している。ボールのやり取りを通して、子どもの心を受け止め確かめて、そっとよりそう。今、このボールに込められている子供の心は、喜び、希望、夢で一杯なのか。それとも、苦しみ、悲しみ、辛さを抱えているのか。
グローブ(心)で受ける球の重みをどれだけ感じることができるだろうか。
父と子、同時に共に生きている我々、共、伴、友、これからも頑張っていこうよ。
互いに無言のキャッチボール・・・・
でも、心は、繋がっている 父と子。