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教団時報

2015年11月21日

~救世主はなぜ生れたのか~ 「因縁の神赦し、神救い」から

救世主はなぜ誕生したのでしょうか。

それは、“日月地の神世”をこの現界に誕生するためです。

“日月地の神世”とは、健富和、真善美の理想世界をいいます。

それには、救世主様が仰せられた、物を中心とした夜の世界から、心(神)を中心とした昼の世界に切り替えていくことです。

そのため、夜の(悪い)因縁を解消し、昼の(良い)因縁を創造していくことと仰せられました。

因縁というと、前世から引き継いだ運命で、変えられないもの。または「因縁をつける」といったように悪いイメージが強いものです。

しかし、運命は変えられます。

因縁は、私たちが生きていくための目標となったのです。

私たちは、因縁によりここにいます。

因縁がなければ、ここにはいません。

私たちの生命は、“この時”と“この場所”と“親”を選んで、賜命と目的をもってこの現界に誕生しました。

その賜命と目的を果たすために因縁があるのです。

原因に、縁が結ばれて、結果(形)となります。

その原因は、霊界にあって、現界に移されてくるのです。

原因が善ければ結果も善い(善因善果)、原因が悪ければ結果も悪い(悪因悪果)はあたりまえですが、悪因であっても善果に変えられると仰せられました。

因縁の神赦しと神救いです。

病気をしなければ健康で、争いがなければ和楽とするのが人智です。

物を中心とした夜の時代に累積された因縁が、原因として移されたときには、病気や貧しさ、争いとして形にでてきます。

形となる前に、神仰に結ばれ、言魂と洗霊をいただき、御賜命にお使いすることによって、御守護がいただけるのです。

また、神様のみこころに適う感謝と素直と真実になれば、災厄や危機に直面しても神様の御守護がいただけるのです。


2015年09月02日

「御神意(みこころ)をいただけば恐れるものはない」から

「いにしえの 道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」

これは『島津いろは歌』の一首目です。

いくらいい話や立派な教えを聞いても言葉に出しても、
自分がそのことを実行しなければ何にもなりません。

このことは、歌の一番はじめにあるように、大切かつ難しいことです。

御神意(みこころ)は、森羅万象に絶えず注がれています。

御神意(みこころ)をしっかりと想念にいただければ、何も恐れるものはないと、いただいています。

しかし、いただける想念がなければ、御神意(みこころ)が絶えず注がれているといえども、
見ても見えず、聞いても聞こえずで、不安を抱くこととなります。

また、自分の都合のよいことはいただいて、悪いことは無視をするのです。

なぜ、そういったことになるのでしょうか。

それは、邪魔をしているものがあるからです。

それが、我、執着、慢心です。

御神意(みこころ)は、素直な想念にいただけます。

そのことは、救いにみせられます。

「救われることを先に願えば、不安となります」

救われることが先に立つと、救われることのみに想念がいき、御神意(みこころ)がいただけず、
なぜ救われないのだろうと、不安になるのです。

「救いを先に神誓いすれば、歓びが生まれます」

救う想念が先に立つと、いかに他のために為すことができるだろかと想念が動き、
救いを実践していく中に、自然と御神意(みこころ)をいただくことができ、
歓びを感じることができるようになります。

そして、救いができることに感謝できれば、救われていくのです。

 

御神意(みこころ)を真剣にいただけば、霊智をいただけます。

中途半端なら、愚痴がでます。

いただかなければ、言い訳が先に立つのです。


2015年07月28日

「霊智で本命を視る」から

一生懸命とは…

一生懸命とは、「一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けること」です。

“一”には霊と体があります。

霊的には、神様に想念を結ぶことです。

体的には、人や時、事などによって変わってきます。

例えば家庭では、父親が、または母親が“一(中心)”になります。

時には祖父母が、子どもが、お孫さんが“一”になることもあります。

会社にあっては社長や上司が“一”になります。仕事の内容によっては自身が“一”になるかもしれません。

また人ではなく、会社の目的やプロジェクトなどのように目指すところが“一”になったりもします。

このように体的な“一”は、様々です。

その“一”を無視すると、おのずと歪が生じてきます。

これが想念の“誤ち”です。

想念の誤ちの原因になるのが、我・執着・慢心による想念のくもりや濁りです。

“口(くち)”が濁ると“愚痴(ぐち)”に。

“徳(とく)”が濁ると“毒(どく)”に。

“才(さい)”が濁ると“罪(ざい)”に。

“快(かい)”が濁ると“害(がい)”に。

“報恩(ほうおん)”が濁ると“忘恩(ぼうおん)”になるのです。

その想念のくもりや濁りに気づかせてくださるのが“浄化”です。

そして、想念のくもりや濁りを綺麗にしていただくのが、言魂と御洗霊です。

その言魂と御洗霊をいただくには、想念を感謝と素直と真実で満たすことです。

一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けてみましょう。
自ずと、今為すべきことが必ずみえてきます。


2015年07月02日

救いによって救われる

すべては“霊と体”で創られています。

このことを知ることが大事であるといただいています。

このことを知ることによって、私たちが生まれてきた目的や果たさなければならないこと(賜命といいます)がみえてきます。そのことにより、より充実した人生をおくることができるようになります。

私たちは、上下、左右、縦横といった相対の世界に生きています。

相対の世界において上は良く、下は悪い。左が上で右が下というように比較でものごとをみてしまいます。人においても男尊女卑という言葉もあります。

また、物事を正邪善悪で判断してしまいます。良し悪しで決めたがるのです。

このような優劣や善悪でみるところに歪が生じてきます。

すべては“霊と体”で創られていると同じように、上があるから下が見えるのです。左があるから右が分かるのです。悪がみえるから善が分かるのです。

このようにすべては“一如”です。

正邪善悪の中に、より良くなるための、それぞれの働きが、そしてみこころがあるのです。

タイトルの救い、救われることも相対のようで、“一如”です。

救いはすべての人が持っている“本性”です。

救われることもまた、すべての人がもつ“念願”です。

救いと救われることが“一如”としてみせられていくのです。

救われる結果(神の奇蹟)は、私たちの想念の眼にみせられます。

神の奇蹟を知るには、想念を感謝・素直・真実で満たして“利己”から“利他”へ変わることです。

“利己”から“利他”への想念に変わる実践が、救いです。

救いの想念でともに救われていくことを歓ぶのが、“救いによって救われる”共の姿です。

神の奇蹟は、救いにいただくのです。


2015年06月02日

想念の立てなおし

物事は、一から順に始まって、二、三へと進んでいきます。

物事を理解するのも、まず一があって二がわかります。
二があって、一のこと、次の三のことがわかります。
その順序を違えると、うまくいくと思っていても、いかなくなります。
わかることも、理解できなくなります。

「一(神)に二(物)を結んで、霊主体従になれば、(産の)三と成るのです。一の感謝を忘れて、二の不満から始まっては、三の歓びは生まれません。」

一(ひ)二(ふ)三(み)の、二(ふ・不)からはじまると、不平不満、不安、不信、不和、不幸というように、負(ふ)の連鎖が待っています。そして、私はだめだと、諦めの想念となるのです。この想念は、物を中心にした結果です。
それが、一(ひ=火・日・霊=神)から始まると、二(ふ・不)のいただき方が変わってきます。

不二は、二つとない尊いもの。
不死は、死ぬことではなく、霊界への誕生。不苦は、苦ではなく福です。
このように、不・負(ふ)は富(ふ)へと、私たちの想念次第で変わっていきます。
不平不満や不安、不信、不和……は、一(神)に結んで、感謝と素直と真実になって、創造の歓びへと変えていくことができます。


2015年04月20日

生命と想念の実践

私たちは、物や形を中心とした体主のあり方から、心を中心とした霊主のあり方に変わることを目指しています。

物や形を中心にしますと、どうしても自分だけといった“我”や、物や名誉、権力などへの“執着”、人よりも……という比べる“慢心”が芽生えてきます。このような我、執着、慢心が、いろいろな歪をおこし、思ってもいなかった方向へと進んでしまいます。

それではいけないと、四苦八苦しながら、また難行苦行の修行をし、克服しようと努力しますが、それがかなわないと、「仕方がない」と諦め、我慢すればいいといった自己犠牲の心がわいてきます。

そして、残念という“悪い因縁”を残して、自分だけでなく、周囲にも、そして子孫へも悪い影響を及ぼしていきます。

これでは根本的な解決にはなりません。

物や形中心から、心中心に変えていくことです。

そのためには、我、執着、慢心を、感謝、素直、真実の心に変えていくことです。

感謝することで、歓びの想念がわいてきます。素直な想念から改心ができます。真実の想念から、誠心でことに臨んでいくことができます。

“できない”を“できる”に変えていくのが神仰実践です。

その歓びが、“因縁の解消”となり、新たな“良い因縁の創造”へとつながっていきます。「必ず、仕方があります」

神様からいただいた、生命と想念の実践です。


2015年03月16日

神誕生をいただく

神誕生とは、神の存在をしり、私たち一人ひとりに神様が宿っていることをしることです。その中で私たちがこの世に誕生してきた目的がわかってきます。

その目的を果たしていく私達には、賜命があります。その目的と賜命をしり、果たしていくことを「新しき生命」をいただくと言います。

その新しき生命とは、「なすべきこと」をいただく(分かる)ということです。「なすべきこと」とは、“為す(すること)成す(成長していくこと)生す(創造していくこと)”といただいています。

私は何をしたらいいの?どうしたらいいの?と思った時に、神様に想念を結んでみましょう。必ず、「なすべきこと」がみえてきます。


2015年02月18日

本命に立つ神の使徒

私たちは、この世に、神様から〝生の目的と賜命″をいただいて生まれてくると教えられています。

その目的と賜命の根本には〝救い″があります。 私たちは、「人」という漢字にみられるように、〝支え、支えられて″生活をしています。その支え、支えられている中に、この救いがあります。 その救いに目覚め、お使いすることにより、神様からいただいた本命の誕生がゆるされていきます。

「這えば立て、立てば歩めの親心」と謂われます。

その親心も及ばないような無量無辺の大愛で、神様は、自分自身が救われることから、家族をはじめ、知人や友人、そしてまだ会ったこともない救いを待っておられる人へと〝救いの輪″が広がっていくのを〝待って″おられます。


2014年08月01日

平成26年の6月 今月の御意

平成二十六年一月の御意から、二月三月四月そして五月の時を隔て戴く御意は時の言魂、九十九の密意です。
救世主様が明かされた“九十九の密意”とは、神扉開明であり天の岩戸ひらきであり言魂と洗霊によって視らしめられる救いのみこころでした。
祖霊と共に霊界の因縁と霊的正邪の浄化が赦されたのです。
“九十九の密意”には、「 九 徳 」や「 九 解 」のみこころ蔵されています。「 九 徳 」は、やわらかな寛い想念、うやまい恭む想念、毅然としたなかにも、思いやりのあるあたたかい想念、いさぎよい想念、みんなのために真心をつくす剛い想念を意味しています。また、「 九 解 」は、苦を解くに通じて、苦から解き放たれるだけでなく、苦をのりこえ苦を力にかえていくことができるのです。
神の大愛によって、苦の形をとおして九の力、苦を(良くなるための)浄化といただけば力となるのです。苦の力は、因縁の浄化清算の対応の力、九の力は霊体・縦横を創造の力です。
苦と九の力を実生していく言魂を今一度いただきましょう。


2014年05月02日

平成26年の5月 今月の御意 「本命のとき」 「救世の神業・救世の賜命」 

本命のとき

生命には“生きる目的”が授けられ、その目的に“生かされていく賜命”があります。生命は霊界から限界に移されて、目的と賜命の“本命”に応えるのです。
本命に応えていく人生に、霊魂の向上が赦されて、“人成”となるのです。生命の目的と賜命をめざして、御神意に応えていくのが、“生命の本命”です。
生命の本命を視り、その本命に立って、目的と賜命を果たすときです。(神が誕生する神言と神事の)、その“神生”がおこなわれたのです。
“神(誕)生”の、神世の御神命である“救世賜命”に立つときです。救世賜命をいただき、救って救われていく“本命のとき”がきました。

救世の神業・救世の賜命

言霊と洗霊の御神業によって“救世賜命”をいただくのです。
救世賜命に応えていけば、悪因は消滅して善因が誕生するのです。
悪因を善因に変えて“悪因善果”へと救われていくのです。
祖霊と共に本命に応えて、仕合わせを創造していく救いの神業です。
本命に立って、神業にいただく悪因消滅・善因創造を赦されていくのです。
言霊に赦される“神言”は、(神赦しの)神の審判です。
洗霊にいただく“神事”は、(神救いの)神の審判です。
言霊と洗霊の神赦しと神救いで、日月地の神世に生かされていく“地所位”をいただくのです。
神誕生の福音は、“救世”の神業であって“救世”の大賜命です。