救世主教の教え

救世主教 TOP> 教え >教団時報

教団時報

2021年12月20日

新しき生命をいただこう。

*生の目的と賜命と、その力

救世主様は、”新しき生命”をご開明になりました。人は、神から生を与えられ、命をいただいてます。生と命は、神の愛と力によって生成されていきます。それを体に移して産み育てるのが、わたしたちです。

人の生命は、霊界に生まれて限界で育てられ、いただいた御賜命を果たし、そしてまた、霊界へと徃っていきます。

神は私たちに新しき生命をお赦しになるのです。

新しき生命をいただくには、”生の目的と、その力をもつこと”です。

救世主様は、救世の御新神業でいただく生命力を”新しき生命”と仰せられたのです。

*言魂と洗霊でいただく生命力

救世主様は、”生の目的と賜命とその力を実現するには、まず神を視ること”と仰せられました。さらに”神の言魂と洗霊によって、生命力が与えられる。言魂と洗霊によって、日に新たな生活力をいただくのであるから、その実践を怠ってはならない”と仰せられました。

神の言魂と洗霊によって、人の霊と体のくもりは、浄化していきます。体主の因縁は解消をされて、新しき生命とその力が赦されていきます。

わたしたちは、救世主様のお言魂をいただいて、”不幸な運命は免れない因縁”だ、と思い込み苦しむのは、誤りであることを視りました。

次回へ

 


2021年12月02日

「自己を生かす」眠っている天分を伸ばし完全燃焼を

前回よりの続きです。

「促しの部分」を見てみましょう。

1.自己を生かすためにはまず、他人を生かすことがたいせつである。

今人類は互いに足の引っ張り合いをしているように思えます。人を恨んだり、人を不幸におとし入れたりするなかに、悪い因縁を互いがつんでいくようでしかたがありません。そのような人々にちからをかしてくれるはずがないのです。神様がそのような人々に力を貸してくれるはずがないのです。みこころに適わないことなのですから当然です。救うものは救われるの実践によれば、神のみこころに適い自然に素晴らしい社会が誕生するに違いないのです。それが、「相乗効果」となるのです。

2.立場を生かして自己を生かすことと、愛情や親しみや慈しみをもって生かすことが大切である。

神仰の上においても、家庭にあっても、会社やその他の組織においても、それぞれが立場をもって、自己を生かそうとします。親は親として、子は子として自己を十分に生かすことが大切で、それが賜命というものでしょう。しかし、その立場を離れても、決して自己を生かせないというのではありません。たとえば、立場がなくても地位がなくても、自己を生かすことはできます。先に述べた相手を生かそうという想念さえあれば、愛情や慈しみの想念が生まれるのです。

3.努力の過程では、よく自己を省みることが大切である。

自己を生かしているかどうかはなかなか分からないものです。自分では、生かしているようでも十分でないときもたくさんあります。自己を生かすのに障害になるのが「慢心」ではないかと思います。また、大切なことは、自分なりの努力ではだめということです。もっと大きな世界に目覚めていく事が大切です。この神仰による自己を生かすことは正に、神様が相手ですから偉大なみこころと力をいただくだけではなく、これでよいということはありませんから、一生を通じて自己の向上が神様から望まれるのです。神仰は自己を生かすためには最高の道場です。


2021年11月13日

「自己を生かす」  眠っている天分を伸ばし、完全燃焼を

前回、少し書きましたが、続きとして

今は、一部の人にしかない能力であっても、もっと多くの人に獲得できる可能性は十分にあります。このような「天分」があるにも関わらず、どうしてそれらが発揮できないのでしょうか。その一つは、想念の在り方に問題があるのです。できないと思っていたり、その努力を怠ったり、「苦」と考えることが多く、想念の転換ができないのです。この天分については、生まれつきの才能といえば、個人差があると考えるのが一般的ですが、神仰上から言えば、その差は本当にはないのであって、どう発揮されるかその努力によると考えます。

但し、今の世に生きている人間においては全ての点において「天分」を発揮するには相当の努力が必要です。それだけの「器」にまで成長していないのです。その器を目指すことが、人間性の完成なのです。神性人間は「天分」を生かしきることのできる人間なのです。しかし、人間性の完成はなかなかできるわけではありません。では、人間としての本当の成長ががなければ「天分」を生かせないのかというとそうではありません。本当にその一部分であっても、生かそうと努力すれば、その生かした天分をもとに、人間完成に近付くことができるのです。その努力の過程に生まれるのが「個性」なのです。人間としての性格にしても、スポーツの分野においても、勉強の分野でも本当に天分を伸ばせばその成果は偉大です。

以上が初めての「神仰上の断定」の部分の概要です。次回は、促しの部分について見てみましょう。


2021年10月31日

自己を生かす。  最終回

こうして神の加護による人生を歩むとき、人間としての値打が発揮される。それが神のみこころにかなう人生です。人格や意思で進めることだけでなく、神のみこころにかなうことが信仰者として生きる道であり、これが救いの信仰である。

自己を生かすことは、自己を視り、意義のある人生を送ることである。自己を生かす自覚なくして、真の生きている証を視ることはできない。


2021年10月25日

自己を生かす。続き

このようにひとは天分を与えられ個性的に人間性の完成を目指すのでありますが、直ちに完成できるというものではありません。つねに努力を要するのであります。そしてその過程においても、自己を生かすべきです。いいかえれば自己完成のために自己を生かす必要があるのであります。

さて、自己を生かすためにはまず他人を生かすことが大切です。それは、他人を否定して自己の存在はないからであります。他人を生かしたときには、必ず、相乗効果によって自己をも生かしたことになります。他人を生かし自己をよりよく生かす道の多くは、それぞれの立場を通じて行われるのであります。しかし立場をとおしてのみ生かされるというのではありません。別の生かし方もあります。愛情や親しみや慈しみをもって生かすのであります。理性や感情において、立場を離れて生かす道もあります。

自己を生かそうと努力するとき、まず自己を省みるのです。そこからさらに努力しようという意欲が生まれてきます。そこで人智をこえて、神のみこころに近づこうとするようになります。その時眠っていた霊性がめざめ、天分が発露し、個性が輝き、真の自己を生かすことができるのです。


2021年10月04日

自己を生かす 続きです

自己を生かすためには、まず自己の人間性の完成が必要であります。そして、神性人間となることを目指すことであります。しかし、その人間性の完成は同じ人間を作るのではないのです。人それぞれに得手不得手があり、神から与えられた才能や性質があります。いわゆる天分であります。

人は、自己に与えられた天分のすべてを視らないし、また、自己の中に眠っている天分に気がつかないままに一生を終わることもあります。知っていても努力をしない、あるいは努力の仕方を間違えているなどして天分を発揮しないままに終わる人もあります。人は、天分を視り生かすことが大切であります。

人は、与えられた天分を生かたとき、それは優れた個性となります。個性があるからこそ、人生には変化があり、また有意義になります。そして、一人ひとりも生きる意味も生まれてきます。人と人の協調や助け合いも当然必要になります。それだからこそ人生に対する興味も尽きないのであります。互いの人生を称賛しうあうこともできるのです。

次回に続く


2021年09月19日

自己を生かす。

自己を生かすとは、人さまざまな能力、才能などの天分を伸ばし、価値ある人生、充実した人生を送るように努力することです。自己を生かすことによって人は生き甲斐ある人生をおこることができます。そもそも、人は、神より生かされています。これは動かしがたい真実です。その真実を視るために人は活発な生命活動を通して、自己の生命を完全燃焼するよう努力しなければなりません。ここに生きがいが生まれます。これを神は望まれています。しれが神命であり、賜命であります。それはまた、生命を引き継いできた祖霊の念願でもあります。

次回に続きますが、わかりやすくします。

眠っている天分を伸ばし完全燃焼を

みおしえ「自己を生かす」をいただきます。全体の理解を中心に考えてみましょう。

人には素晴らしい才能や能力、性質が与えられています。それは天から分け与えられたもの、すなわち「天分」です。しかし、本文にあるようにその天分の事については十分知らなかったり知っていても十分に生かしきるということには程遠いようです。その一つとして、一般的には「超能力」というものがあります。信仰的には、「霊的な力」や「霊智」と言われるものがあります。「生きる力」も本当にまだつかまれていません。また、人間にはもっと能力があると思われているもので、よく例えに出されるものに「脳」があります。人間は、生きている内にその大半は使わず、自然に退化させているのです。その他にもっと我々が気がついていない能力や性質があるように思います。           次回に続く


2021年09月12日

徳を積む 最終回です。

次に人のためにするというのは、人類の未来を共に考えるということでもあります。その考えたことを人に伝え仲間づくりをすることもあります。人のこころを温かくすることを考えるのも大切です。人に笑いをもたらすこともあります。人の幸せを願ってするということは、人のためにすることと共に、もっと直接的な内容も含まれます。家庭の幸せのために努力することもあります。生きる希望を与えることも考えられます。

さらに他人の難儀を助ける、困っている人を助けるということはたくさんあります。若い人がお年寄りに席を譲るというささいな行為から、いのちの危ない人を助けるということまでその幅もひろいでしょう。人の難儀を見てみぬふりする人はいないでしょうが、積極的に人の手助けをしてゆく社会になるように願いたいものです。様々な徳を積む行為が考えられますが、我々は、信仰者としていっそう徳を積む努力をしたいものです。     以上です。


2021年09月07日

徳を積む その3

さて、人は神様よりもっと積極的に自分の命を生かすことが望まれています。それが賜命です。

じっとしていても生きているかぎり他の生命を犠牲にするのですから、じっとしているのではなく積極的に体を使って、想念を使って人のため世のために尽くすように努力することです。

「世の中のためにする。ひとのためにする。人の幸せを願ってする。他人の難儀を助ける。困っている人を助ける。」とあります。ひとのためにするという言葉で言い尽くしていると思われますが、その行為には様々なかたちがあるようです。

まず世の中のためにするということでも、大袈裟なこと、大それたことというのではありません。立場や仕事を活用してできることもあれば、平凡な人でも世の中のためにできることはたくさんあります。平和への祈り、大自然を大切にする。環境の悪化を防ぐようにする。ボランティア活動を勧める、世の中のためを考える人、子供を育てるなど、いずれも世の中のためにすることです。

次に続く。


2021年08月29日

徳を積む。その2です。

さて、人が生きていくには、多くのいのちの犠牲の上になりたっていることは言うまでもありません。そのような心をもつとき感謝が生まれ思いやりの想念(こころ)培うことができるのです。もちろん自分のいのちをも大切にするという心が育ちます。物を大切にするということも徳を積む行為に繋がるのです。生きる姿勢そのものが徳を積むか、積んだ徳を少なくしていくかどうかに繋がっていくのです。

ここに一人真面目に生きる人がいるとします。その人は別の人のためとか世のためとか言わないけれど、大自然の中にあって与えられた仕事を転職と考え、一生懸命に働いている、周りの人は彼のその姿をみているだけで清々しい気持ちになれる。このような人は立派に徳を積んでいます。また、ある人は世のため人のためと言ってやはり仕事にも精をだしています。しかし、言葉づかいが悪く周りの人を傷つけたり気分を悪くさしてしまいます。このような人は半分徳を積みながらも、積んだ徳を少なくしている人なのです。このように徳を積む行為はまず、自分自身の想念(こころ)と言動、言い換えると心言行を正し、神に結んだ心言行を心掛けることなのです。人は、生きているだけで、他の生物を犠牲にします。その上に自分では気がつかない間に、他の人を傷つけることもないとは言い切れないのです。ですから、心言行をいつも正し、一致した在り方をするよう望まれるのです。そしてそれは、簡単なことではなく大変に難しい事なのです。それができれば徳を積む行為の半分は成し遂げられたと言えます。

次回へ