救世主教の教え

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教団時報

2021年09月07日

徳を積む その3

さて、人は神様よりもっと積極的に自分の命を生かすことが望まれています。それが賜命です。

じっとしていても生きているかぎり他の生命を犠牲にするのですから、じっとしているのではなく積極的に体を使って、想念を使って人のため世のために尽くすように努力することです。

「世の中のためにする。ひとのためにする。人の幸せを願ってする。他人の難儀を助ける。困っている人を助ける。」とあります。ひとのためにするという言葉で言い尽くしていると思われますが、その行為には様々なかたちがあるようです。

まず世の中のためにするということでも、大袈裟なこと、大それたことというのではありません。立場や仕事を活用してできることもあれば、平凡な人でも世の中のためにできることはたくさんあります。平和への祈り、大自然を大切にする。環境の悪化を防ぐようにする。ボランティア活動を勧める、世の中のためを考える人、子供を育てるなど、いずれも世の中のためにすることです。

次に続く。


2021年08月29日

徳を積む。その2です。

さて、人が生きていくには、多くのいのちの犠牲の上になりたっていることは言うまでもありません。そのような心をもつとき感謝が生まれ思いやりの想念(こころ)培うことができるのです。もちろん自分のいのちをも大切にするという心が育ちます。物を大切にするということも徳を積む行為に繋がるのです。生きる姿勢そのものが徳を積むか、積んだ徳を少なくしていくかどうかに繋がっていくのです。

ここに一人真面目に生きる人がいるとします。その人は別の人のためとか世のためとか言わないけれど、大自然の中にあって与えられた仕事を転職と考え、一生懸命に働いている、周りの人は彼のその姿をみているだけで清々しい気持ちになれる。このような人は立派に徳を積んでいます。また、ある人は世のため人のためと言ってやはり仕事にも精をだしています。しかし、言葉づかいが悪く周りの人を傷つけたり気分を悪くさしてしまいます。このような人は半分徳を積みながらも、積んだ徳を少なくしている人なのです。このように徳を積む行為はまず、自分自身の想念(こころ)と言動、言い換えると心言行を正し、神に結んだ心言行を心掛けることなのです。人は、生きているだけで、他の生物を犠牲にします。その上に自分では気がつかない間に、他の人を傷つけることもないとは言い切れないのです。ですから、心言行をいつも正し、一致した在り方をするよう望まれるのです。そしてそれは、簡単なことではなく大変に難しい事なのです。それができれば徳を積む行為の半分は成し遂げられたと言えます。

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2018年08月20日

想念がなければ結果は生まれない。

型は、まず想念に視せられてきます。
型を、(実態のある)形にするには、想念の器がなければなりません。
“こうしたい”と思わなければ、“こうする”ことは、実現できないのです。
想念に型がつくられることを、“想念ができる”といいます。
できた想念、つくった意思によって、結果が生まれてきます。
“原因の想念”があるから、“結果の現実“ができるのです。
結果は、(想念という)原因の前に存在することは、けっして無いのです。
“こうする”と思う想念が原因となって、“こうできた”という、形をもった結
果が生じるのです。
原因の想念に結果となる形がつくられるのです。
想念がなければ、結果は生まれようがないのです。


2018年07月23日

ものの見方と考え方 その③

人生にはいろんな事に出会う。一日の生活の中にもいろんな事に出会う。その一つ一つに対して、神の心に叶ったものの見方や考え方ができる様になると、その人は救われた人になる。救われたひとは人を救える人でもある。例え、今、その人が病貧争の中にあっても、神のこころに叶ったものの見方や考え方ができるなら、その人は人を救える人である。そういう人には不幸がなくなる。
そういう人は自分の心を神に結び、神の使命を自覚している。それは、自分の目の前にいる人、自分の周囲の人から愛を与え力を与え、喜びを与え幸せを与えようと努力する。それが神から頂いた自分の使命だと思っているから、決して人を悪く思い、悪く言い、悪くしたりする事はない。そこから生成化育する神意に叶ったものの見方が出発する。

  • ものの見方と考え方

2018年04月02日

父と子

新聞を読みながらですが、杉山平一さんの詩の中に「父と子」という一編があります。キャッチボールに興じる親子を見つめた詩です。
一球一球に感応して言葉が紡がれていく、投げる、受ける、声にならないもの、吐き出している。ボールのやり取りを通して、子どもの心を受け止め確かめて、そっとよりそう。今、このボールに込められている子供の心は、喜び、希望、夢で一杯なのか。それとも、苦しみ、悲しみ、辛さを抱えているのか。
グローブ(心)で受ける球の重みをどれだけ感じることができるだろうか。
父と子、同時に共に生きている我々、共、伴、友、これからも頑張っていこうよ。

互いに無言のキャッチボール・・・・
でも、心は、繋がっている 父と子。


2018年03月19日

ものの見方と考え方 その①

神仰による救いとは何だろう。それはものの見方や考え方が変わるという事だろう。
今まで悩んだり苦しんだり悲観したり、時には絶望的になっていたものがものの見方や考え方を変える事によって希望が生まれたり歓びが生まれたりする。その時のその人は救われたという実感を持つ。

神仰は、ものの見方や考え方を変えてあげる事、それが救いという事なんだ。この事をはっきりと掴んでいないと、神仰の仕甲斐がない。神仰により人間性が変わるという事も、家庭の中が変わってくるという事も、幸せになるという事も、具体的にはものの見方や考え方が変わってくるからである。

何故神仰すればものの見方や考え方が変わってくるのか、それは簡単である。自分の目の前にあるもの、それを自分の心で受け取らずに神に結んだ心で受け取る。
神が何故自分にこのようなものを与えるのかという受け取り方をする。そうすると自分の進むべき道が見えてくる。前途があるという事は救いがあるという事で、希望が湧き、苦しみが喜びに転じ、不平不満が感謝に変わる。


2018年03月31日

ものの見方と考え方 その②

もし、自分の心で受け取っていると、受け取り切れないものがあって悩んだりする。
そこから不平不満になり争いが生まれ、破壊になる。それを神に結んだ心で受け取る。神は愛であり力であり、救いであり、生育化育であるから、その線に添ったものの見方や考え方、受け取り方するようになる。
だから、信仰する人の心に愛が生まれ、力が生まれ、救いが生まれ、生成化育が生まれる。そうならなければいけない。
もし、そうなっていないなら、自分の、ものの見方や考え方を充分に検討してみよう。
まだ、神の心に叶ったものの見方やかんがえかたが出来ていない事に気づくはずだ。


2016年06月10日

~節分けの時を迎えて~  想念の世界を変えていく

どのような想念の世界を変えなければならないのでしょうか。
救世主様は「“物”中心から“心(神)”中心に変わること」と仰せられました。

物を中心にすると我や執着、慢心が生まれ、私有の想念が育ってきます。
そして物への切りなき欲が強くなっていきます。

そうすると、その欲が弱肉強食の関係を創っていくのです。
強いものは利己的となり、弱いものを蔑ろにし、弱いものは強いものに屈し、怨念の想念となるのです。

強いものも弱いものも、共に神様が示されている真実を見失うのです。
物中心の想念は“時”にも及びます。
他の人の時間さえも、私有化してしまうこともあるのです。
物中心による我・執着・慢心は、結果として病貧争へとつながっていくのです。

しかし、すべては神様からいただいたものです。
言い換えれば、現界にいる間、神様から借りているのです。
なぜなら、すべての物は“あの世”には持っていくことはできないのです。

それでも、自分の物と思うところに想念の誤り(間違い)が起きてしまいます。

また、自分の力で所有したと考え違いをし、神様を無視して我、執着、慢心が強くなっていくのです。

想念を変えていきましょう。
物中心から心(神)中心に変えていくことです。
それには、物が主ではなく、神様に結ばれた生命が主であることを視ることです。

神様に結ぶ想念により、“我・執着・慢心”を“感謝・素直・真実”に変えていきましょう。


2016年05月10日

~神実をいただく~ 神の大愛

 神様から平等にいただいている代表的なもの、それは光であり、時です。そして神の大愛とみこころは、神光りとなって注がれています。

 私たち人間をはじめ生命は、その神光りのもとに果たさなければならない“賜命の地所意”に生かされています。

 しかし、人はそのことをなかなか知ろうとしません。

 知らないために、不安、不信、不和といった心を抱いてしまいます。その心の元は、物を中心にした考えから生まれ、育っていく“我、執着、慢心”です。そして、いつの間にか暗い夜の世界へと進んでいくのです。

しかし、どんな真っ暗な闇にあても神様は、光を照らしてくださいます。闇の夜に光る灯台のように、必ず私たちの行き先を照らしてくれます。明けない夜はありません。出口のないトンネルはないのです。

 夜の世界から昼の世界に変われた(救われた)ときに強く神の大愛を感じます。神の大愛は、特に救われた“歓びの想念”で“しる”のです。

 神の大愛を“しる”には、“視(し)る”ことが大切です。
“しる”には、 “知る”“識る”“視る”の三つがあります。
“知る”は、物事や姿形を表面的に見ることです。
“識る”は、見えてないところを識ることです。
“視る”は、霊的な神理として視ることです。

 私たちは、物事を三つ目の霊的な神理として視ることを忘れて、“知る”“識る”の人智だけで見ている、また知ることが多いのです。

“知る”“識る”でみると、自分の都合のいいように事実を隠したり、誤魔化したりしてしまいます。そして、都合の悪いことにはふたをしてしまうのです。

そうすると、神のみこころもわからず、いただいている大愛にも気づくことができなくなります。
一つのマイナスの出来事によって、いただいている九十九の天恵が見えなくなることもあるのです。


2016年02月24日

事実に示せば真実となる

人の真実は、神様が求められる真実にはほど遠いものです。
そのために、いろいろと不自然な状態に陥っています。

神様が求められる真実があれば、「私の真実」というものがあります。
自分が言うこと、することは正しい、私は人のために尽くしているという強い思いです。

自分の真実があれば、他の人にも真実があります。
私の真実と他の人の真実が一致すれば問題はないのですが、一致することは稀ではないでしょうか。
自分は親切でしたと思っていることが、お節介だったということもあります。
時には、自分の真実を無理に押し付けたりもします。

真実だと思っていても、思っていることと言うことが違う。
言うこととすることが違う、というようなこともあります。

私たちは、思うこと、言うこと、行うことを「心言行」と言います。

「心言行 一致の力なかりせば 人を動かすことはあたわじ」という御讃歌があります。

思うこと、言うこと、行うことが一致していなければ、人は私を信じて動いてはくれません。
心言行に齟齬が生じると人間関係もうまくいかなくなります。

心言行の齟齬により、人はさまざまな苦しみを感じるのではないでしょうか。

この齟齬が生じる原因は何でしょうか。

人は、物中心の考えになると“執着”が生まれます。執着は自分が中心という“我”を生みます。
その我が“慢心”を育てていきます。自分は正しい、他の人は間違っているという思いがわいてきます。

そこに心言行に齟齬が生じてきます。
そのことにより、結果は自ずと悪いものになっていき、不真実ということになります。

このような、自己中心の真実でなく、ほんとうの真実、神様のみこころにかなった結果を事実として示していくことが大切です。

そのためには、心を神様に結ぶことです。
そして、他のために為す、救い(感謝と素直)の真実に生きていくことです。