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いろんなお話
2022年12月08日
ハニーローザの成長
春に植えたハニーローザの苗木が、大きく成長してます。 小さかった苗木が、高さ3メートル以上になっています。 主人が高さを1、5メートルくらいにして、横に曲げました。 世話をしやすい高さです。 この苗木をみるのが私の愉しみです。

お日様と肥料・雨水で、こんなにも大きくなるんだと感心しながら眺めています。 ふと思ったことが、「人間の心は思うように成長しないな」と。 心の成長というのは、苦が喜びであると思えること。 苦を超え、それが喜びであり、心の成長に繋がることなのかと。 同じ苦(失敗)を繰り返していては、成長どころではないです。 私も成長していかなければと思いました。
このハニーローザの苗木は、私の宝です。 いつ病気(ガン)になるか不安な私に、生きる元気と気力を与えてくれました。 だからこそ大きく成長していくのは慶びなんです。 ハニーローザが成長すると、「私も」って思ってしまいます。 「必死に生きてこそ、その生涯は光を放つ」大好きな言葉です。

ハニーローザも再来年あたりに実をつけてくれるでしょう。 根を大きくして、必死に大きく大きく成長していく。 ハニーローザの成長を、ずっとずっと見ていたいと思っています。 私も必死に生きていたい、成長したいと心から想います。

2022年12月06日
友に、幸あれ
先日、仲良くさせていただいていた友人が引越しました. 家も土地も処分して東京へ行きました。本人いわく「体が動くうちに東京行きを決めた」と。 息子さんが東京で医者をしています。 息子さんが高校を卒業して、大学から県外で生活しています。 ずっと離れて暮らしていました。

シングルマザーでしたが、子供のこと・家事、仕事、ボランティアと何事にも手を抜かない人でした。 決して「忙しい」と言うこともありませんでした。 彼女は海外で生活したり、東京でも生活していました。 強くて優しい人。しっかりしていて、頼りになる人でした。 決して他人の悪口を言わない。 自分と意見が合わなくても、いろんな意見があることは
当然という考えでした。 意見の相違があろうとも、他人の悪口を言う人ではなかったです。 潔い、格好いい生き方だなと思っていました。 私は彼女から、(自分の考えを持つ、意志を持つ、人に流されない、人のせいにしない)ことを学びました。

そして眼識は必要ということ。「人を見る目というか、物事の真偽と優劣を見分ける力がないといけない」とか。 「肩書きに流されたり、人の話を鵜呑みにしては駄目。 両方の話を聞くこと」。 私に足りないものを教えてくれました。 とても有難い友人でした。 元気で過ごしてほしいと心から願っています。
友に幸あれ。

2022年11月30日
一難去る
今まで主人に内緒で信(神)仰をしてました。 いつ言おうか、何処から話をしていいか、自分の中に迷いがあったように思います。 先日とうとう主人に話をしました。 先祖を救うため、自分達が幸せになるためと、自分なりにわかりやすく話したつもりです。

主人は基本的には「宗教」というものに興味がありません。必要ともしてません。 でも、「信教の自由」は尊重してくれます。 それだけでも有難いことです。 将来的には主人と一緒に、教会に参拝することです。 それが私の目標になりそうです。
先週、主人から「今週は、いつ出かけるの?」と尋ねられました。 少しずつ少しずつですが、私のしている事を理解、興味を持ってくれるといいなと思っています。 そのためには、私自身が「神仰者」の前に、良き母・良き妻、であるよう努力です。

ゆっくり時間をかけていこうと思います。
2022年11月24日
新たな一日、新たないのち
人に迷惑をかけてしまいました。2〜3日、自己嫌悪に陥ってしまい頭が混乱。 自分を振り返りました。 自分を、どの角度から見ても私が悪い。 迷惑をかけてしまったことに心が痛み、自分の愚かさに嫌気がさす。 つくづく、つくづく嫌気がさす。
苦しくて苦しくて、自分は餓鬼畜生だと思うくらいに最低だと思いました。 「申し訳ない」という気持ちで、いっぱいでした。

人生は辛く苦しいことがありますが、自分で蒔いた種。 自分で刈らなければいけません。 自分で気づいたこと。学んだことがあります。 自分自身の悪いところは直すこと。我執着慢心も。そして、迷惑をかけた人には真実を尽くすこと。
最大限の努力をしていきたいと考えています。 そのことに気づかせて頂いたことに感謝です。 そして「元気を出していこう」。 毎日、新たな一日、新たな命をいただき、前を向いていけるようになりたいです。 ありのままの自分をさらし、ありのままの私を神(救世主様)は受け入れて下さると思っています。 感謝の心を込めて、神(救世)の御賜命に仕えたいと思います。

2022年11月23日
疲労困憊
体調が非常に悪いです。 あまり深く考えていませんでした。 9月末から11月半ばまで忙しくしていました。 その上いろいろと悩み事があったりで心身共に疲れきってしまっていたのかもしれません。

息子が福岡へ10月に転勤。箱詰めと片付けに追われました。 そして主人が11月に熊本から鹿児島に帰ってくることになって、片付けと箱詰め。 その間も息子が体調不良になって心配で福岡へ行ったりと、自分のことを後回しにしていました。 いつも私は胃腸薬と正露丸を持ち歩いていました。 ふと気づいたら、胃腸薬のビンが空っぽになっていました。 確か60錠。胃が痛いこと、お腹の調子が悪いことが多かったように思います。
体力とか免疫力が落ちていたのかもしれません。 そして、とうとう体がフラフラして熱っぽくなっていました。 頭の中で、風邪?コロナ?インフルエンザ?などが駆け巡りました。 横になろうと思っても掃除機をかけないと気がすまない性格。 熱が出ていても掃除機をかけてしまう。

娘に「部屋が汚くても死なないから」と言われる始末。 自分で自分の首を絞めてしまう。「あー、面倒な性格」と自分でも思っています。 いい歳をして自分の健康管理が出来ていないことに
反省です。 心身共に余裕のない毎日だったんだと思います。 でも今の状態だと病院が必要かもしれません。 少しのんびりして体の様子を見てみようと思っています。

2022年11月22日
仕事と家族 最終回
それぞれ子供達も社会人になり、私達親も歳をとりました。 大学を卒業した息子は測量士補として就職。 娘も事務職として働いていました。
主人は大阪から戻ってきて地元で3年働いて、またもや熊本へ転勤。 大阪と比べると近い距離感なので、何かあれば動けるので安心でした。 熊本に定年まで5年、その後は嘱託所長として5年。 この10年の間いろいろありました。 測量士補として働いていた息子は異業種に転職。 娘は仕事のストレスで病気、入院、手術、退院。 その後、2年後くらいに退職。

親にしてみれば、幾つになっても子どもは子ども。 今でも心配をします。 おそらく、いつまでも何かしら心配をするのでしょう。 親というのは、そういう存在なのかなと思います。
つい10日くらい前に、主人が熊本を引き払い帰って来ました。年内は有給消化だそうです。 翌日、娘と私、主人の3人で食事に行きました。 主人の好物のしゃぶしゃぶ、それもコースで。 娘からの奢りでした。「長い間、お仕事ご苦労様」と言われて嬉しそうでした。 労いの言葉が嬉しかったようです。

これから第二の人生を、楽しく元気で過ごして欲しいと思っています。 また、家族の健康、子どもの幸せを祈ります。
2022年11月12日
救世主教に想う
4.祖霊の念願・因縁解消
- 人は神より尊い生命を賜わり、たえず「良くなれかし」と神の愛と力をいただいています。たとえ肉体は滅んでも霊として存在し、神の御神意(みこころ)に浴しています。すなわち、神・幽・現三界は別々に遠く離れて存在するものではなく一体であり、神の愛と力はそのすべての世界(三界)に及んでいるのです。
- また人の生命は、突然に生じるものではなく、遠く祖先より受け継がれてきたものです。数代さかのぼるだけでも祖先の数は膨大なものになり、その祖先のどの一人を欠いても自己は存在しません。そして、やがては自分も祖先となるのです。
- すべての祖先は、今は霊となって霊界から子孫を見守っており、その祖先の霊(魂)を私たちは「祖霊」と呼んでいます。祖霊を知る(救世主教では「視る」と言います)ことは、悠久の生命の流れとその因を視ることであり、また生命の大元である神を視ることにもなります。人は祖霊を視り、祖霊と共に生き、さらに子孫に生命を伝え、やがて自らも祖霊となるのです。

- 人は肉体の死により「祖霊」となりますが、祖霊は私たち子孫を見守るだけでなく、子孫に伝えるべき念願(「祖霊の念願」)を持って生きています。「祖霊の念願」とは、まずは「祖霊のことを忘れないで欲しい」ということ、そして「自分だけが勝手に生きていると思わずに、祖霊と共に生きていると思ってもらいたい」ということです。また「祖先から引き継いだ大事な生命を粗末にせず、家族同士、子孫同士仲良く平和に暮らして欲しい」ということ、そして「神から賜わった大切な命を自分一人のためでなく、健・富・和、真・善・美の理想社会である「日月地の神世」創造のため、「救世賜命」のために生かして欲しい」ということです。
- また祖霊といえども決して完全無欠なものではありません。この世(現界)に残していった未練や反省、怨みや憎しみ等の想念を霊界で持ち続けているかもしれません。これらを浄化するには、現界に生きる私たち子孫の助力が必要であり、「祖霊の因縁」を解消するため私たち子孫が神に祈ることが大切であると考えています。すなわち「因縁解消」は、「祖霊の念願」の中でも最も大事な念願の一つです。
- 「因縁」は「因」と「縁」から成ります。「因」とは元(因素)であり、この因素に何らかの条件(「縁」)が整った時、結果が生まれます。たとえば花が咲くにはまず種(因素)が必要ですが、種だけでは花は咲かず、「日(太陽)・水・土」という条件(「縁」)が整って初めて花を咲かせます。因と縁がそろって一つの結果が生まれるのです。またその結果はそこで終わりではなく、その結果が次の因となり、縁となります。我々の生命はこの因と縁により誕生する、つまり「生成化育」されるのです。

- 善い因と縁がそろった時、最も善い結果が生まれますが、いくら善い因があっても縁が悪ければ結果は異なります。その逆に、因は善くなくても縁が善ければ結果は善くなることもあります。「善因善果」はもちろん「悪因善果」を目指すのが救世主教の信仰(「神仰」)です。悪い因素があっても善い縁を築いていくことが大切であり、そのために「神仰」が必要なのです。そして善い因素は「神仰」によってさらに「善い因縁」にしていくのです。
- また「因縁」は過去を問うものではなく、将来を築くためのものです。より幸せな未来に向けて「善い因縁」を築くことこそ大切であり、子孫に「善い因縁」を残すことが肝要です。子孫は私たちを祖先として未来に生きる者です。また私たちも祖霊として未来に生き続けるのです。その現世が救われていくために、祖霊は今の私たちが「善い因縁」を築くよう要請しているのです。これこそが「祖霊の念願」の本質と言えます。
- 「祖霊の念願」は、子孫の想念と深い部分で結ばれています。よって、祖霊を祀り拝むことだけが祖霊の供養ではなく、「祖霊の念願に応えること」が子孫の義務であり、真に祖霊の供養となるのです。
- 「祖霊の念願」に応えるには、私たち子孫の想念がつねに祖霊に結ばれていることが大切ですが、そのためには霊性を向上し、日々霊壇に額づき想念を祖霊に結んで「善言讃詞」を奉唱して祖霊と対面すること、そして「祖霊と共に」の想念で「救世賜命」に仕えることが大事であり、これにより子孫と共に永遠の生命を視ることになるのです。

2022年11月03日
救世主教について想う
3.想念次第・想念の転換と拡がり(想念の向上)
- 救世主教には「想念次第」という言葉があります。これは「想念の持ち方次第で人は幸せにも不幸せにもなる」、「想念の在り方がその人の運命をも決定する」という教えです。そして救世主教では「感謝・素直・真実」の想念、想念を常に転換し向上させていくこと(「想念の転換と拡がり」)が大切であると教えています。

- 人は常に正なる想念と邪なる想念の間を揺れ動いており、ここに人生の幸・不幸の分岐点があります。また想念は生命力の源であり、人の言葉や行動の原動力となります。人は想念に基づいて行動するため、想念にあることは必ず何らかの形となって現れます。すなわち「感謝・素直・真実」の想念、「真・善・美」を求める正しい想念からは、正しい言葉や行動、正しい結果(「健・富・和」)が生まれますが、「我・執着・慢心」、「偽・悪・醜」の誤った想念からは、誤った言動や結果(「病・貧・争」)しか生まれないと考えています。強大な権力を持つ指導者の誤った想念により戦争や紛争にまで発展することがあるのはその一例です。
- 私たちは、想念が浄化され、その能力を正しく発揮できるようになることを「想念の向上」と呼んでいます。「想念の向上」とは「感謝・素直・真実」に満ちた想念、「真・善・美」を求める想念のことです。「感謝・素直・真実」に満ちた想念をさらに高めていくと「無の想念」に至ります。それは「何も無い」という意味ではなく、何事においても偏りやこだわりがなく、神の御神意(みこころ)のままに、(良いことも悪いことも)すべてを感謝・素直・真実の想念で受け入れる想念になるということです。この意味で、「想念の向上」とは「霊性の向上」であると言えます。

- 救世主教には「苦は力」という言葉があります。救世主教の開祖である牧喜之助師は「苦を逃れようとする想念は、苦に対して無力となる」と説かれました。苦しみから逃れようとするのでなく、苦を感謝の想念で受け止め、御神意(みこころ)のままに受け入れて、進んで苦を乗り越えようとする強い想念を持つことが大切であると説いているのです。
2022年10月10日
螺旋階段
10月に入って過ごしやすくなってきました。 昼間は暑い日もありますが、朝晩が涼しくなりました。 秋の気配を少しずつ感じることが嬉しいです。
私は先月から体調が良くないまま10月に突入って感じです。 時々、心身共に疲れきっている自分がいます。 「この感情も生きているからこそ。有難い」と自分に言い聞かせています。 しかし、有難いという気持ちよりも、心身の疲れの方が優っているのが本音かもしれません。

主人と息子は転勤族です。 主人は今月末に熊本から戻ってくる予定です。 独身の息子は今月から福岡勤務です。 引越しのため福岡へ行ったり、次は引越し準備や片付けで熊本へ行きます。 何か老体に鞭打つ感じです。 自分の感情と体が、追い付いていきません。
その上、自宅での衣替えも必要に迫られているような。 大好きな料理も作る気になれず、お惣菜ばかり。 同居している娘に「大丈夫?、どうしたの?」と声をかけられます。 会話も面倒。内心は「話しかけないで」と思ってしまいます。 頭と体を休める「ぼーっと」する時間が必要なのかなと。 「全ては自分の心(想念)次第」という教えがあります。神結びの言魂がよぎりますが、できていません。 その心に到達していません。 なかなか神仰即生活の基本ができていないと痛感している私です。

今の私は螺旋階段に例えると、階段を上って踊り場で長時間休憩しているところだと思います。 心と体が休憩中で止まってしまっています。 全ての作業が終わったら、ひと息ついて、また螺旋階段を一歩ずつ上がっていこうと思っています。

2022年10月08日
救世主教について想う
3.救世主教の教えの概要
【『信徒の手引き』より(原文)】
- 神・幽・現三界は、神の絶対愛と絶対力によって創造され、真・善・美、健・富・和の理想に向かっている。
- 我々はその理想社会を日月地の神世と言い、理想の家庭である神仰家庭を築き、理想の人間である神性人間を目指している。
- そのため、神の洗霊と言魂をいただき霊性を向上し、想念の転換と拡がりによって、感謝と素直と真実の想念になり、救世賜命に仕えて祖霊の念願に応えるのである。

【救世主教の教えの概要について、『みおしえ』『神仰用語の解説」等を参考に、もう少し具体的な内容にしてみました】
1.日月地の神世
- 私たち救世主教は「目に見えない世界」があると信じています。神々がおられる「神界」、私たちの祖霊がおられる「幽界」です。
そして、私たちが現在、生活している目に見える世界「現界」と合わせて「神・幽・現三界」と呼んでいます。
- 私たちはこの「神・幽・現三界」が、神の絶対愛と絶対力によって創造され、「健・富・和」、「真・善・美」の理想社会に向かっていると信じます。私たちは、その理想社会を「日月地(みろく)の神世」と呼んでいます。
- 「日・月・地」という言葉は、生命活動の大元である太陽・月・地球といった「大宇宙の働き」を示しています。人間や生物にとって、太陽や月や地球の働きはなくてはならないもので、その調和ある運行が大切なことは言うまでもありません。「日月地の神世」とは、人間を含めた生物すべてが、その大元であり、始めである神の御神意(みこころ)に沿い、本来の働きが発揮されて正しく営まれている「調和の状態」とも言えます。
- しかし現実には、世界各地で戦争や紛争、地球温暖化による異常気象や災害、世界規模の感染症、貧富の格差拡大等が起き、理想とされる「健・富・和」、「真・善・美」とは正反対の「病・貧・争」、「偽・悪・醜」の状態が見せられています。
- 私たちはそのような状態にあったとしても、すべては神の御神意(みこころ)であり、理想社会「日月地の神世」に至るための準備過程、良い状態になるための調和作用(「浄化」)であると考えています。そして「日月地の神世」を創造するため、私たち各人が理想とされる「神性人間」を目指し、理想家庭である「神仰家庭」を築き、その「神仰家庭」の輪を社会全体に広げていくことが大切であると考えています。

2.神性人間・神の洗霊・霊主体従の想念(霊性の向上)
- 私たちは、人間には本来、神の性質(「本霊」)が仕組まれており、その働きを正しく生かすことができる人を「神性人間」と呼んでいます。すなわち「神性人間」とは、自分の中に本霊が仕組まれ、神から生かされていることを自覚(「霊智」)して、神の御神意(みこころ)に沿って生きることができる人です。
- しかし私たちは、神から生かされていることを忘れ、自己中心的な心、「我・執着・慢心」の想念になりがちです。救世主教では、心の状態や内面、精神的な働きのすべてを「想念」と呼びますが、「我・執着・慢心の想念」とは、我がままで、物やお金などに執着し、自己を過信しておごり高ぶった心の状態を指します。なぜこのような状態になるのでしょうか。
- 私たち人間には、神のご分霊である「本霊」と、この本霊を補佐し物を認識し考える力の元となる「副霊」が生まれながらに仕組まれており、「想念」はこの「本霊」と「副霊」の働きから生まれると考えています(この本霊と副霊を併せて「霊的生命体」「霊性」と呼んでいます)。「本霊」は神の御神意(みこころ)のままにある魂ですが、「副霊」は人間の在り方にゆだねられた魂です。このため「副霊の清濁」がその人の人間性を左右し、「副霊」に曇りが生じ、(「本霊」の補佐としての)本来の役割を果たさず、正しく働かない場合に「我・執着・慢心の想念」が生じるものと考えています。「本霊」に強く結ばれた想念は神本来の愛に満ちていますが、想念が曇った「副霊」に強く結ばれると、自己中心的な考えや感情があらわになってきます。このため私たちは、「副霊の曇り」を取り除き本来の働きを発揮できるよう、神に想念を結んで「神の洗霊」をいただくことを実践しています。
- 救世主教では「霊主体従の想念が大事である」と説いています。「霊主体従」とは、神をすべての中心(主体)にすること、世俗的なことを主とするのでなく従とし、神仰を主体にすることです。言い換えると、神界・幽界(目に見えない世界)を主とし、現界(目に見える世界)を従にすること、物やお金を主とするのではなく、いのちを主とすること、霊的生命体について言えば、本霊を主とし副霊を従にすることでもあります。私たちはこのような想念状態になることを「霊性の向上」と呼んでいます。「神の洗霊」をいただくには「体主霊従」ではなく「霊主体従」の想念になり、そのうえで想念を神に結んで、いただくことが大事であると考えています。
