救ってこそ救われる
※救うものは救われることを実生していくには、
一、神の実在を確信すること。
一、真善美の姿を求めること。
一、真実の力を見せ示すこと。
※この想念と力がなければ、救うものは救われる言葉を知っていても、ただ無力に終わるのである。
救っていけば救われる、このことは真実の力がなければ結果とはならないのである。
※真実の鏡に照らしてみると、救っていけば救われる姿が映されるのである。救われることは救いの結果であるから、真実の鏡に、救うものは自らをも救うことが視せられるのである。
※救いによって、救われ慶びを味わうのである。
この慶びがあるからこそ、救い立てるのである。言魂洗霊とに示される、救ってこそ救われる真実に、救いの神髄がある。
父と子
新聞を読みながらですが、杉山平一さんの詩の中に「父と子」という一編があります。キャッチボールに興じる親子を見つめた詩です。
一球一球に感応して言葉が紡がれていく、投げる、受ける、声にならないもの、吐き出している。ボールのやり取りを通して、子どもの心を受け止め確かめて、そっとよりそう。今、このボールに込められている子供の心は、喜び、希望、夢で一杯なのか。それとも、苦しみ、悲しみ、辛さを抱えているのか。
グローブ(心)で受ける球の重みをどれだけ感じることができるだろうか。
父と子、同時に共に生きている我々、共、伴、友、これからも頑張っていこうよ。
互いに無言のキャッチボール・・・・
でも、心は、繋がっている 父と子。
ものの見方と考え方 その①
神仰による救いとは何だろう。それはものの見方や考え方が変わるという事だろう。
今まで悩んだり苦しんだり悲観したり、時には絶望的になっていたものがものの見方や考え方を変える事によって希望が生まれたり歓びが生まれたりする。その時のその人は救われたという実感を持つ。
神仰は、ものの見方や考え方を変えてあげる事、それが救いという事なんだ。この事をはっきりと掴んでいないと、神仰の仕甲斐がない。神仰により人間性が変わるという事も、家庭の中が変わってくるという事も、幸せになるという事も、具体的にはものの見方や考え方が変わってくるからである。
何故神仰すればものの見方や考え方が変わってくるのか、それは簡単である。自分の目の前にあるもの、それを自分の心で受け取らずに神に結んだ心で受け取る。
神が何故自分にこのようなものを与えるのかという受け取り方をする。そうすると自分の進むべき道が見えてくる。前途があるという事は救いがあるという事で、希望が湧き、苦しみが喜びに転じ、不平不満が感謝に変わる。
2018年03月02日
梅の花
原良福音所には、梅の木が6本あります。
花が咲く時期は、少しずつ違いますが綺麗に咲いています。今から咲く梅もあります。また、梅の木に多くの鳥がやってきて、よく歌を歌っています。もうしばらくするとウグイスがやってきます。楽しみです。
梅は、品種が多く、中国からの渡来種のほか、日本では江戸時代にたくさんの品種の育成・改良が行なわれ、現在では300種以上あるといわれています
園芸学に分類すると、花の観賞を目的とする「花梅」と、実の採取を目的とする「実梅」に分けられるとのことです。さらに、花梅は「3系9性」に分類されるとの事です。
3月1日の天気で、風が強く、花弁が相当散りました。もう少し、鑑賞したかったですが残念です。
もうしばらくすると、さくらが咲きます。
いろんな意味で私たちも花を咲かせたいものです。
2018年05月21日
4月の旅行について
4月末に平戸・佐世保と行ってまいりました。
世界遺産登録を待つ地域というところで、平戸方面の歴史的建物や教会等を見てまいりました。教会などの写真を掲載したいところですが、了解を得ていないと思い今回は掲載しません。
平戸大橋を渡りました。オランダ商館 松浦資料館 平戸城など車を駐車場に置いて歩いてゆっくりと町を歩くことがいいですね。
松浦資料館
その後は、平戸市内の教会を5件ほど見てまいりました。
翌日は、佐世保方面です。 九十九島が良く見える展海峰や自衛隊資料館他有田ポーセリングパークと見て回り帰路につきました。当日は、有田と波佐見の陶器市が開催されていましたが残念ながら見に行くことができませんでした。次の機会に。
七月の研修旅行の準備の為、行ってみました。多くの方が参加できればと思います。神徒さん以外でも歓迎ですので興味のある方はメールしていただければと思います。
2016年02月03日
救世主教 いろんなお話 | 豆を撒く日(節分)
日本には、年の始めのお正月・二月三日の節分・三月三日のおひな祭りと季節が移るごとに色々な行事があります。
節分には、「鬼は外 福は内」と豆をまいて悪い鬼を追い出して幸せを家の中に呼び込むのです。
では、なぜ「豆」をまくのでしょうか。
昔から穀物や果実には邪気をはらう霊力があると考えられ「まめ」の言葉には、よく働くまめに努力するの意味があります。魔目・魔滅にもつうじ、魔よけ・無病息災にも繋がります。
古くは平安時代より宮中で行われた行事が今では、どこの家庭でも広く行われています。炒り豆にして豆をまくのは、炒った豆には芽が出ない、そして丑寅(十二支の丑寅の方位)を鬼門として恐れ、二度と出てこれないようにとの願いにより大豆を炒ってまいたとの事です。
しかし、鬼門にいると恐れられた鬼の正体は常立(とこたち)之神・言魂(ことたま)の神でした。
私たち、救世主教の神徒は、この炒り豆を花豆と称して(花豆とは大豆に砂糖を塗したもの)、昭和33年の節分より「神は内、福は人」と祭主の先達に合わせ唱えて花豆をまきます。
神力が内に宿れば、人に幸福を与えていける、救う者は救われるの神の法則(みこころ)を視る時となりました。