救世主教の教え

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教団時報

2018年03月19日

ものの見方と考え方 その①

神仰による救いとは何だろう。それはものの見方や考え方が変わるという事だろう。
今まで悩んだり苦しんだり悲観したり、時には絶望的になっていたものがものの見方や考え方を変える事によって希望が生まれたり歓びが生まれたりする。その時のその人は救われたという実感を持つ。

神仰は、ものの見方や考え方を変えてあげる事、それが救いという事なんだ。この事をはっきりと掴んでいないと、神仰の仕甲斐がない。神仰により人間性が変わるという事も、家庭の中が変わってくるという事も、幸せになるという事も、具体的にはものの見方や考え方が変わってくるからである。

何故神仰すればものの見方や考え方が変わってくるのか、それは簡単である。自分の目の前にあるもの、それを自分の心で受け取らずに神に結んだ心で受け取る。
神が何故自分にこのようなものを与えるのかという受け取り方をする。そうすると自分の進むべき道が見えてくる。前途があるという事は救いがあるという事で、希望が湧き、苦しみが喜びに転じ、不平不満が感謝に変わる。


2018年03月31日

ものの見方と考え方 その②

もし、自分の心で受け取っていると、受け取り切れないものがあって悩んだりする。
そこから不平不満になり争いが生まれ、破壊になる。それを神に結んだ心で受け取る。神は愛であり力であり、救いであり、生育化育であるから、その線に添ったものの見方や考え方、受け取り方するようになる。
だから、信仰する人の心に愛が生まれ、力が生まれ、救いが生まれ、生成化育が生まれる。そうならなければいけない。
もし、そうなっていないなら、自分の、ものの見方や考え方を充分に検討してみよう。
まだ、神の心に叶ったものの見方やかんがえかたが出来ていない事に気づくはずだ。


2016年06月10日

~節分けの時を迎えて~  想念の世界を変えていく

どのような想念の世界を変えなければならないのでしょうか。
救世主様は「“物”中心から“心(神)”中心に変わること」と仰せられました。

物を中心にすると我や執着、慢心が生まれ、私有の想念が育ってきます。
そして物への切りなき欲が強くなっていきます。

そうすると、その欲が弱肉強食の関係を創っていくのです。
強いものは利己的となり、弱いものを蔑ろにし、弱いものは強いものに屈し、怨念の想念となるのです。

強いものも弱いものも、共に神様が示されている真実を見失うのです。
物中心の想念は“時”にも及びます。
他の人の時間さえも、私有化してしまうこともあるのです。
物中心による我・執着・慢心は、結果として病貧争へとつながっていくのです。

しかし、すべては神様からいただいたものです。
言い換えれば、現界にいる間、神様から借りているのです。
なぜなら、すべての物は“あの世”には持っていくことはできないのです。

それでも、自分の物と思うところに想念の誤り(間違い)が起きてしまいます。

また、自分の力で所有したと考え違いをし、神様を無視して我、執着、慢心が強くなっていくのです。

想念を変えていきましょう。
物中心から心(神)中心に変えていくことです。
それには、物が主ではなく、神様に結ばれた生命が主であることを視ることです。

神様に結ぶ想念により、“我・執着・慢心”を“感謝・素直・真実”に変えていきましょう。


2016年05月10日

~神実をいただく~ 神の大愛

 神様から平等にいただいている代表的なもの、それは光であり、時です。そして神の大愛とみこころは、神光りとなって注がれています。

 私たち人間をはじめ生命は、その神光りのもとに果たさなければならない“賜命の地所意”に生かされています。

 しかし、人はそのことをなかなか知ろうとしません。

 知らないために、不安、不信、不和といった心を抱いてしまいます。その心の元は、物を中心にした考えから生まれ、育っていく“我、執着、慢心”です。そして、いつの間にか暗い夜の世界へと進んでいくのです。

しかし、どんな真っ暗な闇にあても神様は、光を照らしてくださいます。闇の夜に光る灯台のように、必ず私たちの行き先を照らしてくれます。明けない夜はありません。出口のないトンネルはないのです。

 夜の世界から昼の世界に変われた(救われた)ときに強く神の大愛を感じます。神の大愛は、特に救われた“歓びの想念”で“しる”のです。

 神の大愛を“しる”には、“視(し)る”ことが大切です。
“しる”には、 “知る”“識る”“視る”の三つがあります。
“知る”は、物事や姿形を表面的に見ることです。
“識る”は、見えてないところを識ることです。
“視る”は、霊的な神理として視ることです。

 私たちは、物事を三つ目の霊的な神理として視ることを忘れて、“知る”“識る”の人智だけで見ている、また知ることが多いのです。

“知る”“識る”でみると、自分の都合のいいように事実を隠したり、誤魔化したりしてしまいます。そして、都合の悪いことにはふたをしてしまうのです。

そうすると、神のみこころもわからず、いただいている大愛にも気づくことができなくなります。
一つのマイナスの出来事によって、いただいている九十九の天恵が見えなくなることもあるのです。


2016年02月24日

事実に示せば真実となる

人の真実は、神様が求められる真実にはほど遠いものです。
そのために、いろいろと不自然な状態に陥っています。

神様が求められる真実があれば、「私の真実」というものがあります。
自分が言うこと、することは正しい、私は人のために尽くしているという強い思いです。

自分の真実があれば、他の人にも真実があります。
私の真実と他の人の真実が一致すれば問題はないのですが、一致することは稀ではないでしょうか。
自分は親切でしたと思っていることが、お節介だったということもあります。
時には、自分の真実を無理に押し付けたりもします。

真実だと思っていても、思っていることと言うことが違う。
言うこととすることが違う、というようなこともあります。

私たちは、思うこと、言うこと、行うことを「心言行」と言います。

「心言行 一致の力なかりせば 人を動かすことはあたわじ」という御讃歌があります。

思うこと、言うこと、行うことが一致していなければ、人は私を信じて動いてはくれません。
心言行に齟齬が生じると人間関係もうまくいかなくなります。

心言行の齟齬により、人はさまざまな苦しみを感じるのではないでしょうか。

この齟齬が生じる原因は何でしょうか。

人は、物中心の考えになると“執着”が生まれます。執着は自分が中心という“我”を生みます。
その我が“慢心”を育てていきます。自分は正しい、他の人は間違っているという思いがわいてきます。

そこに心言行に齟齬が生じてきます。
そのことにより、結果は自ずと悪いものになっていき、不真実ということになります。

このような、自己中心の真実でなく、ほんとうの真実、神様のみこころにかなった結果を事実として示していくことが大切です。

そのためには、心を神様に結ぶことです。
そして、他のために為す、救い(感謝と素直)の真実に生きていくことです。


2015年12月19日

御神業を継いでいこう

「継ぐ」というと、“家督や家業を継ぐ”が頭に浮かびます。

「継ぐ」に類似している言葉として「繋ぐ」があります。

辞書でみてみますと、「継ぐ」は“結び合わせたり、足したりして一続きのものとする。ものごとが断絶しないように、前に続けて行うこと”とあります。

「繋ぐ」は“離れているもの、切れている物を一続きのものに結びつける”とあります。

このように、継いでいくことと繋いでいくことは同じようで違います。

継いでいくということは、切れることなく、連綿として続いていくようにしていくことです。生命と同じです。

今年は戦後70年でした。特に印象に残っていることは、実体験された方が年々少なくなり、当時の想いを継いでいくことが難しくなってきているということです。今後は、戦争を知らない人が、代わって継いでいかなければなりません。

戦争のことだけでなく、様々な分野でも継ぐということが課題となっています。

世代交代は30年といわれます。30年を通して引き継ぎ、受け継がれていきます。

最初の30年は、自分がさまざまな縁を通して、成長していくための大事なときです。そして親や先輩からさまざまなことを継いでいく準備の期間であり、受け継ぐときとなります。

次の30年は、自分だけでなく、家族や共に生きていく人といっしょに成長していくときです。そして、子や後輩に継いでいくときとなります。

60年のときを経て、“還暦”を迎えます。

これまでの60年間は、自分と自分の家族をはじめ直接関係する人のために生きる時間がほとんどです。 

60歳からは、他のために生きていく時間です。まさに“他のために為す”救い輪を大きく展開していくときとなります。

日月地の神世創造のため、言魂と洗霊の御神業を、家族にそして多くの人に継いでいきましょう。

 


2015年11月30日

地上の天国 ~「日月地の神世創造の神事」から~

この現界に写される地上天国のすがたが“日月地の神世(健富和、真善美の理想世界)”です。

この“日月地の神世”を創造していく御神業が、私たちが賜った“言魂と洗霊の御神業”です。

日月地の神世創造のため、私たちは“神の使徒”として、救いの御賜命にお使いしています。

現界に霊界の様を写しだして、“日月地の神世の型”をみせられるのが、10月に行われる“天国大祭”です。現在はこの大祭を“御聖誕祝典”として移されました。

“御聖誕祝典”に、祖霊と共にご参拝をゆるされることによって、“因縁の結び替え”と“夜の因縁解消”がゆるされます。

そして“新しき生命”と“新たな賜命”をいただくのです。

ここでいう「新しき、新たな」とは、新しい、古いということではありません。

私一人が“今、(他のために)為すべきこと”を、みこころとしていただくことです。

そして、私一人の為すべき“心言行”を神誓いするのです。

この“新しき生命と新たな賜命”は、参拝することと同時に、神様に感謝する心(想念)にゆるされます。

私たちの生命をはじめ、すべてのものは、神様から賜わったものです。

それを、神様を無視して私の物、私の力で得た物などと思うところに“想念の誤り”がおきます。その想念の誤りによって、我や執着、慢心が生じて、“病貧争”となるのです。

神様を無視した“想念の誤り”を、神仰の想念に生まれる“感謝、素直、真実”に改心していきましょう。

一切は“想念”にあります。想念によって、運命は変えられていきます。

祖霊と共に栄えていく迪(みち)が、“御聖誕祝典”の神結びによって開けられていくのです。

 


2015年11月21日

~救世主はなぜ生れたのか~ 「因縁の神赦し、神救い」から

救世主はなぜ誕生したのでしょうか。

それは、“日月地の神世”をこの現界に誕生するためです。

“日月地の神世”とは、健富和、真善美の理想世界をいいます。

それには、救世主様が仰せられた、物を中心とした夜の世界から、心(神)を中心とした昼の世界に切り替えていくことです。

そのため、夜の(悪い)因縁を解消し、昼の(良い)因縁を創造していくことと仰せられました。

因縁というと、前世から引き継いだ運命で、変えられないもの。または「因縁をつける」といったように悪いイメージが強いものです。

しかし、運命は変えられます。

因縁は、私たちが生きていくための目標となったのです。

私たちは、因縁によりここにいます。

因縁がなければ、ここにはいません。

私たちの生命は、“この時”と“この場所”と“親”を選んで、賜命と目的をもってこの現界に誕生しました。

その賜命と目的を果たすために因縁があるのです。

原因に、縁が結ばれて、結果(形)となります。

その原因は、霊界にあって、現界に移されてくるのです。

原因が善ければ結果も善い(善因善果)、原因が悪ければ結果も悪い(悪因悪果)はあたりまえですが、悪因であっても善果に変えられると仰せられました。

因縁の神赦しと神救いです。

病気をしなければ健康で、争いがなければ和楽とするのが人智です。

物を中心とした夜の時代に累積された因縁が、原因として移されたときには、病気や貧しさ、争いとして形にでてきます。

形となる前に、神仰に結ばれ、言魂と洗霊をいただき、御賜命にお使いすることによって、御守護がいただけるのです。

また、神様のみこころに適う感謝と素直と真実になれば、災厄や危機に直面しても神様の御守護がいただけるのです。


2015年09月02日

「御神意(みこころ)をいただけば恐れるものはない」から

「いにしえの 道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」

これは『島津いろは歌』の一首目です。

いくらいい話や立派な教えを聞いても言葉に出しても、
自分がそのことを実行しなければ何にもなりません。

このことは、歌の一番はじめにあるように、大切かつ難しいことです。

御神意(みこころ)は、森羅万象に絶えず注がれています。

御神意(みこころ)をしっかりと想念にいただければ、何も恐れるものはないと、いただいています。

しかし、いただける想念がなければ、御神意(みこころ)が絶えず注がれているといえども、
見ても見えず、聞いても聞こえずで、不安を抱くこととなります。

また、自分の都合のよいことはいただいて、悪いことは無視をするのです。

なぜ、そういったことになるのでしょうか。

それは、邪魔をしているものがあるからです。

それが、我、執着、慢心です。

御神意(みこころ)は、素直な想念にいただけます。

そのことは、救いにみせられます。

「救われることを先に願えば、不安となります」

救われることが先に立つと、救われることのみに想念がいき、御神意(みこころ)がいただけず、
なぜ救われないのだろうと、不安になるのです。

「救いを先に神誓いすれば、歓びが生まれます」

救う想念が先に立つと、いかに他のために為すことができるだろかと想念が動き、
救いを実践していく中に、自然と御神意(みこころ)をいただくことができ、
歓びを感じることができるようになります。

そして、救いができることに感謝できれば、救われていくのです。

 

御神意(みこころ)を真剣にいただけば、霊智をいただけます。

中途半端なら、愚痴がでます。

いただかなければ、言い訳が先に立つのです。


2015年07月28日

「霊智で本命を視る」から

一生懸命とは…

一生懸命とは、「一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けること」です。

“一”には霊と体があります。

霊的には、神様に想念を結ぶことです。

体的には、人や時、事などによって変わってきます。

例えば家庭では、父親が、または母親が“一(中心)”になります。

時には祖父母が、子どもが、お孫さんが“一”になることもあります。

会社にあっては社長や上司が“一”になります。仕事の内容によっては自身が“一”になるかもしれません。

また人ではなく、会社の目的やプロジェクトなどのように目指すところが“一”になったりもします。

このように体的な“一”は、様々です。

その“一”を無視すると、おのずと歪が生じてきます。

これが想念の“誤ち”です。

想念の誤ちの原因になるのが、我・執着・慢心による想念のくもりや濁りです。

“口(くち)”が濁ると“愚痴(ぐち)”に。

“徳(とく)”が濁ると“毒(どく)”に。

“才(さい)”が濁ると“罪(ざい)”に。

“快(かい)”が濁ると“害(がい)”に。

“報恩(ほうおん)”が濁ると“忘恩(ぼうおん)”になるのです。

その想念のくもりや濁りに気づかせてくださるのが“浄化”です。

そして、想念のくもりや濁りを綺麗にしていただくのが、言魂と御洗霊です。

その言魂と御洗霊をいただくには、想念を感謝と素直と真実で満たすことです。

一の神に結んで生きて、ご賜命に命を懸けてみましょう。
自ずと、今為すべきことが必ずみえてきます。