2015年09月02日
「御神意(みこころ)をいただけば恐れるものはない」から
「いにしえの 道を聞いても唱えても わが行いにせずばかいなし」
これは『島津いろは歌』の一首目です。
いくらいい話や立派な教えを聞いても言葉に出しても、
自分がそのことを実行しなければ何にもなりません。
このことは、歌の一番はじめにあるように、大切かつ難しいことです。
御神意は、森羅万象に絶えず注がれています。
御神意をしっかりと想念にいただければ、何も恐れるものはないと、いただいています。
しかし、いただける想念がなければ、御神意が絶えず注がれているといえども、
見ても見えず、聞いても聞こえずで、不安を抱くこととなります。
また、自分の都合のよいことはいただいて、悪いことは無視をするのです。
なぜ、そういったことになるのでしょうか。
それは、邪魔をしているものがあるからです。
それが、我、執着、慢心です。
御神意は、素直な想念にいただけます。
そのことは、救いにみせられます。
「救われることを先に願えば、不安となります」
救われることが先に立つと、救われることのみに想念がいき、御神意がいただけず、
なぜ救われないのだろうと、不安になるのです。
「救いを先に神誓いすれば、歓びが生まれます」
救う想念が先に立つと、いかに他のために為すことができるだろかと想念が動き、
救いを実践していく中に、自然と御神意をいただくことができ、
歓びを感じることができるようになります。
そして、救いができることに感謝できれば、救われていくのです。
御神意を真剣にいただけば、霊智をいただけます。
中途半端なら、愚痴がでます。
いただかなければ、言い訳が先に立つのです。