2022年09月18日
共の因縁を型にゆるされて その1
私が救世主教に結ばれたのは、母のお腹のなかにいるときでした。 もう六十年近くになろうとしてます。 私の幼いころには、教会が湯之元というところにあり、毎日、両親に連れられてご参拝していました。 教会長さんにも、とても可愛がってもらいました。 また、年一回、その当時は救世殿でご参拝でしたが、ほとんどの人がお金がないため、前の日に各駅停車に乗り、あくる日の朝五時に別府駅に着き、近くの宿の大部屋で少しの睡眠を取って、そこから歩いて救世殿まで行っていました。
まだ寒く、時には雪が降ってくる年もあって、救世殿の前の道路脇では係の人達が、大きな丸太で焚き火を作ってくれ、みんなで開門まで暖を取っていました。 私が 七歳のときだったと思います。救世主様が、両脇を男の人たちに抱きかかえられてお出ましになりました。 その年の法話は、とても厳しく激しく、神徒さんたちはみんな泣きながら聞いていたのを、子ども心に鮮明に覚えています。
その後、教会が鹿児島に移り、湯之元は分教会になりました。姉も私もハッピー会の活動に参加させていただき、他のハッピーさんたちと六人くらいで、教会までバスで行っていました。 中学生の時には救世殿で行われる研修会に参加して、厳しかったけれど楽しい思い出です。 二番目の姉は、聖地建立のときに奉仕にお使いいただきました。 その姉も今は亡くなりましたが、娘は何かあると電話をしてきますので、そのたびに言魂を与えています。 続く