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神仰する意味を視って (続き)

2020年04月28日

神仰する意味を視って (続き)

神仰は、自分から進んで参拝するということはなく、いつも母に促されて仕方なく参拝していました。参拝するのが好きになれない理由の一つは、参拝すると後から必ず体調が悪くなるからです。特に御聖誕記念祝典から帰った後はひどく、辛くておっくうでした。母から「 救世主様からの神赦しだから、感謝して素直に受けとめようね 」と言われても、「 なんでこんなに苦しいのに、感謝しなければいけないのか 」と反発の想念もありました。参拝しても訓話をしっかり聞いていないので、救世主様の温かいみこころを視ることができないのは当たり前でした。「 母はなぜ神仰をするのだろう。なぜ私たちにまで参拝しなさいというのだろう。 」という考え方しかありませんでした。そんな状態のなか、その意味を視る出来事がありました。

                 

高校に無事入学し、友だちみんなで高校生活への期待に胸をふくらませていました。始まった高校生活は驚くことばかりです。礼儀作法や生活指導の厳しさ、先輩後輩のあり方、なれない通学、今までとはすっかり変わった環境に生活リズムを整えるのは大変でした。心の余裕もだんだんなくなりつつあったように思います。自分でも何がなんだかわからないうちに、いろいろな不満や不安がたまっていたのかも知れません。